出エジプト 14:1-4(14:1-15:21)出エジプト8 『道なき道が拓かれる』2025/04/06 けんたろ
出エジプト 14:1-4(14:1-15:21)
14:1 【主】はモーセに告げられた。
14:2 「イスラエルの子らに言え。引き返して、ミグドルと海の間にあるピ・ハヒロテに面したバアル・ツェフォンの手前で宿営せよ。あなたがたは、それに向かって海辺に宿営しなければならない。
14:3 ファラオはイスラエルの子らについて、『彼らはあの地で迷っている。荒野は彼らを閉じ込めてしまった』と言う。
14:4 わたしはファラオの心を頑なにするので、ファラオは彼らの後を追う。しかし、わたしはファラオとその全軍勢によって栄光を現す。こうしてエジプトは、わたしが【主】であることを知る。」イスラエルの子らはそのとおりにした。
さて、エジプトから脱出したイスラエルはいきなりの窮地に立たされます。
エジプト軍がイスラエルを追ってきてしまったのです。
数百万人という労働力がいなくなってしまったのだから、当然と言えば当然のことです。
判断を間違えたと思ったわけですね。
しかも、神さまが彼らを導いたのは、逃げることのできない場所でした。
前には海、背後にはエジプト軍、絶体絶命のピンチだったのです。
① だから言ったのに
そんな窮地に立たされたイスラエルの人々は、口々にこのように言いました。
出エジプト 14:11 そしてモーセに言った。「エジプトに墓がないからといって、荒野で死なせるために、あなたはわれわれを連れて来たのか。われわれをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということをしてくれたのだ。
14:12 エジプトであなたに『われわれのことにはかまわないで、エジプトに仕えさせてくれ』と言ったではないか。実際、この荒野で死ぬよりは、エジプトに仕えるほうがよかったのだ。」
「だから言ったのに」と言うわけです。
後からそうやって言ってくる人いますよね(笑)。
「やっぱり無理だったんだ」「だから最初からやめておけばよかったんだ」何か失敗すると、必ずこういうことを言う人が出てくるのです。
でも、だったら来るなよっていう話ですよね?
エジプトを出てモーセと共に来るという判断をしたのは自分たちです。
それをいまさら人のせいにしても仕方がありません。
でも、こういう言葉って言われている方にはキツイんですよね。
心にグサグサ刺さってきます。
しかし、この時モーセが返した言葉は素晴らしいものでした。
出エジプト 14:13 モーセは民に言った。「恐れてはならない。しっかり立って、今日あなたがたのために行われる【主】の救いを見なさい。あなたがたは、今日見ているエジプト人をもはや永久に見ることはない。
14:14 【主】があなたがたのために戦われるのだ。あなたがたは、ただ黙っていなさい。」
危機の時にこそ、神さまを信頼するべきです。
なぜなら、主が私たちのために戦ってくださるからです。
私たちは、ただ黙って待つことが必要なときもあるのです。
② 道なき道が拓かれる
いよいよその時が来ました。
エジプト軍が間近へと迫ったその時、神さまはモーセにこのように告げたのです。
出エジプト 14:15 【主】はモーセに言われた。「なぜ、あなたはわたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの子らに、前進するように言え。
14:16 あなたは、あなたの杖を上げ、あなたの手を海の上に伸ばし、海を分けなさい。そうすれば、イスラエルの子らは海の真ん中の乾いた地面を行くことができる。
モーセが神さまの声に従ってそのようにすると、何と激しい風が吹き、目の前の海の水を遮ったのです。
すると、海の真ん中に道が現れ、イスラエルの人々は乾いた場所を通ることができました。
そしてイスラエルの人々が全て渡り切ったとき、そこには水が戻ってきました。
そうして、その場にいたエジプト軍は全て水に飲まれ、大勢が命を落とすことになったのです。
神さまが私たちを導くとき、まるで行き止まりに着いてしまったと感じることがあります。
まるで追い詰められて、道がなくなってしまった状態。
しかも、そこに代わる道を見つけることができない。
間違えてしまっただけなら別の道を進むことができますが、引き返すことすらできない。
特に神さまに背いてそこに来たということもないはずなのに、むしろ神さまに従って歩んできたつもりだったのに、どうすることもできない状況に追い込まれてしまった。
そんな時私たちは、どうしてこんなところに導かれたのだろうと疑問に思ったりします。
「なぜ」という問いの答えは、これまでも何度か言われてきたことです。
十の災いのときにも言われていましたね。
さて、なぜだと思いますか?
それは、敵と私たちが、「誰が神さまなのかを知るため」です。
出エジプト 14:18 ファラオとその戦車とその騎兵によって、わたしが栄光を現すとき、エジプトは、わたしが【主】であることを知る。」
そういう時に私たちがすべきことは、ただ神さまを信頼して待つだけです。
神さまが道のなかったところに道を拓き、神さまが戦ってくださいます。
私たちは、ただそれを目撃するのです。
③ 水を通る
もう一つ、ここから話しておきたいことがあります。
新約聖書ではこのときの出来事を、あることとつなげて説明しているのです。
それは、洗礼です。
第一コリント 10:1 兄弟たち。あなたがたには知らずにいてほしくありません。私たちの先祖はみな雲の下にいて、みな海を通って行きました。
10:2 そしてみな、雲の中と海の中で、モーセにつくバプテスマを受け、
私たちがイエスさまと出会い、その信仰を表明するために行うのが洗礼です。
それは、古い自分に死んで、新しい自分として歩み始めることを象徴しています。
ここで言う古い自分とは、奴隷だったイスラエルとして自分であり、新しい自分とは、自由にされて解放された私たちです。
そこから先は、罪の奴隷ではなく、解放された私たちとして生きることを意味にしているのです。
この時のイスラエルのような、絶体絶命の状況から救われたなら、そこから先は神さまに信頼して歩んでいけるのではないでしょうか?
まさに、多くの方たちがそういう海が割れて道が拓けるような経験の中で信仰を持っていくのは偶然ではないのだと思います。
でも、大切なのはそこから先ですね。
私たちはそうして救われたのですから、喜びをもって神さまに信頼し、ともに歩んでいきたいものです。