ルカ22:14-23 『過ぎ越しの小羊』 2025/04/19 けんたろ
ルカ22:14-23
22:14 その時刻が来て、イエスは席に着かれ、使徒たちも一緒に座った。
22:15 イエスは彼らに言われた。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたと一緒にこの過越の食事をすることを、切に願っていました。
22:16 あなたがたに言います。過越が神の国において成就するまで、わたしが過越の食事をすることは、決してありません。」
22:17 そしてイエスは杯を取り、感謝の祈りをささげてから言われた。「これを取り、互いの間で分けて飲みなさい。
22:18 あなたがたに言います。今から神の国が来る時まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは、決してありません。」
22:19 それからパンを取り、感謝の祈りをささげた後これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられる、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」
22:20 食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約です。
22:21 しかし見なさい。わたしを裏切る者の手が、わたしとともに食卓の上にあります。
22:22 人の子は、定められたとおり去って行きます。しかし、人の子を裏切るその人はわざわいです。」
22:23 そこで弟子たちは、自分たちのうちのだれが、そんなことをしようとしているのかと、互いに議論をし始めた。
西洋のキリスト教ではイースターとして祝われるイエスさまの復活の祭りですが、英語ではPassover、ギリシア語ではパスカ、ヘブル語ではペサハという名まえでも呼ばれています。
ペサハというのは、過ぎ越しという意味のことばで、このお祭りはもともとユダヤ人の過ぎ越しの祭りだったということが分かります。
過越しの祭りはイスラエルが続けていくように教えられたお祭りなので、私たち異邦人はそこから学ぶ分はたくさんありますが、必ず守られなければならない祭りというわけではありません。
とは言え、今は出エジプト記のシリーズからはお話ししていますが、割と最近過ぎ越しの話をしたばかりですね。
それがこのイースターのタイミングと重なっていればよかったのですが、タイミングが微妙にずれてしまいました。
そこで今回は、出エジプト記にある過ぎ越しのことを思い出しつつ、イエスさまがそれをどう理解し、私たちがどのように理解していくべきかという部分に焦点を当てて考えてみたいと思います。
① イスラエルを過ぎ越した神の裁き
まずは復習として出エジプトの時の話を思い出していただきたいのですが、エジプトを脱出するため十の災いが起こったとき、最後の災いの時に起こったことが過越しです。
ある夜、エジプト中の最初に生まれた子供が神の裁きによって死んでしまうという出来事が起こりました。
これは、本来人類が直面するはずだった罪による裁きを象徴する出来事でもあります。
しかし、神さまが命じた通り、羊を屠ってそれを裂き、家の鴨居に塗った家の人々は裁きが起こりませんでした。
つまり、裁きが過越したのです。
それによって奴隷だったイスラエルはエジプトを脱出することができました。
この出来事を覚えて祭りを行ったのが過越しの祭りです。
② 過越しの食事
過越しの際の食事では、傷のない羊がほふられました。
これは、罪のない救い主であるイエスさまを表しています。
その肉を焼いて食べるときには、種を入れないパンと苦菜を添えて食べなければなりませんでした。
出エジプト 12:8 そして、その夜、その肉を食べる。それを火で焼いて、種なしパンと苦菜を添えて食べなければならない。
種とはパンを膨らませるイースト菌や酵母菌のことですが、脱出を急がなければならなかったイスラエルは、種を入れたパンを食べる時間はなかったと言います。
また、苦菜は奴隷時代の苦しみを表していました。
さらに、聖書に記述は見つかりませんが、恐らく捕囚時代に取り入れられた食材があります。
例えば、セーデルと呼ばれる4杯のワインです。
これはそれぞれ、感謝・喜び・贖い・聖別を表すと言われ、最後の晩餐ではそれぞれのワインが分けられたのではないでしょうか。
他にも、ゆで卵や果物、野菜など後に加えられたものがそれぞれ出エジプトでの出来事を象徴しています。
③ 主の晩餐
さて、時代を飛び越えて新約の時代の過越しを見てみましょう。
キリスト教では聖餐式として知られている主の晩餐ですが、イエスさまが行った主の晩餐は過越しの祭りの中で行われました。
本日の聖書箇所がそれを表していましたね。
これは、いつも主の晩餐を行うときに言っていることですが、主の晩餐は宗教的な儀式ではなく、家族のきずなを深めるための晩餐として行われていました。
そこでイエスさまが種なしパンを割ってみんなと分け合ったのです。
そしてイエスさまは、本来の過ぎ越しの祭りでは言われない言葉を口にしました。
22:19 それからパンを取り、感謝の祈りをささげた後これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられる、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」
22:20 食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約です。
ここで分けられているパンとぶどう酒は、過ぎ越しの晩餐の場に振舞われたものでした。
イエスさまは、過ぎ越しの晩餐で出されるパンとぶどう酒は、ご自身を表すものだということを伝えました。
ここで表されているのは、過ぎ越しの祭りはイスラエルが奴隷から解放されて自由になったことを記念したお祭りでしたが、主の晩餐はそれとは違う新しい契約だということです。
それは、イエス様に繋がる全ての人たちにとって意味を持った契約です。
- 過越しは、いけにえの血によって神の裁きがイスラエルを過越したことを感謝し祝うために行われましたが、主の晩餐は私たちがイエスさまの血潮によって罪が赦されたことを祝い、喜ぶためのものです。
- 過越しの祭りは、イスラエルが奴隷から解放されたことを記念して行われましたが、主の晩餐は罪の奴隷だった私たちが解放されて自由になったことを記念して行われます。
- 過越しの祭りは、イスラエルという民族の繋がりを確かめ、絆を深めるために行われましたが、主の晩餐は主を王とする神の王国に属する私たちの繋がりを確かめ、絆を深めるために行われます。
自分はイエス・キリストを受け取りたくないという方は主の晩餐にあずからなくても大丈夫ですが、全ての人がその救いの輪に入るように招かれています。
イエス・キリストを通した救いを受け取り、主にある家族として加わりたいという方は、遠慮なくパンとぶどうジュースを受け取っていただきたいのです。
そして、罪赦されたこと、罪から解放されて自由になったこと、そして主を王とする一つの王国の民として共にその喜びを楽しみませんか。