出エジプト15:22-27(15:22-17:7)出エジプト9 『必要を備えられる神』 2025/04/27 けんたろ
出エジプト15:22-27(15:22-17:7)
15:22 モーセはイスラエルを葦の海から旅立たせた。彼らはシュルの荒野へ出て行き、三日間、荒野を歩いた。しかし、彼らには水が見つからなかった。
15:23 彼らはマラに来たが、マラの水は苦くて飲めなかった。それで、そこはマラという名で呼ばれた。
15:24 民はモーセに向かって「われわれは何を飲んだらよいのか」と不平を言った。
15:25 モーセが【主】に叫ぶと、【主】は彼に一本の木を示された。彼がそれを水の中に投げ込むと、水は甘くなった。主はそこで彼に掟と定めを授け、そこで彼を試み、
15:26 そして言われた。「もし、あなたの神、【主】の御声にあなたが確かに聞き従い、主の目にかなうことを行い、また、その命令に耳を傾け、その掟をことごとく守るなら、わたしがエジプトで下したような病気は何一つあなたの上に下さない。わたしは【主】、あなたを癒やす者だからである。」
15:27 こうして彼らはエリムに着いた。そこには、十二の水の泉と七十本のなつめ椰子の木があった。そこで、彼らはその水のほとりで宿営した。
少し間が空いてしまった感じがしますが、出エジプトの話に戻ります。
出エジプトをしたイスラエルは、救いを受けて新しい命を受けた私たちクリスチャンと重なっているというお話をしたのを覚えているでしょうか?
これ以降の話は、「良くも悪くも」という言い方をしておこうと思いますが、私たちクリスチャンの生き方として学ぶ部分がたくさん出てきます。
今日の箇所からは、どんなことが学べるのでしょうか?
一緒に見ていきましょう。
① 必要を備えられる神
新しいスタートを迎えたイスラエルが最初に直面するのは、自分たちの命にかかわる問題でした。
まずは、先ほど読んだ箇所に書かれていたのは飲み水の問題です。
彼らはシュルの荒野と呼ばれる場所をさ迷いますが、飲み水が不足して困ることになります。
ようやく見つけたマラという場所にある水場の水は、苦くてとても飲めない状態でした。
人々の不平に応えてモーセが主に叫ぶと、一本の木が示され、人々がそれを苦い水の中に入れると、その水は飲めるようになったという話です。
次に出てくるのは、イスラエルの人々の中に起こった「肉が食べたい」という不平でした。
すると神さまはその不平を聞いて、うずらの群れが飛んできました。
イスラエルの人々はそのうずらを食べて腹を満たすことができたという話です。
第三に、マナと呼ばれるパンに似た不思議な食べ物が与えられました。
このマナに関しては、イスラエルが約束の地に入るまで、安息日以外の日には毎日与えられました。
そして第四に、ホレブ(シナイ山)の岩でモーセが岩を打って水を出したという話が出てきます。
この場所はメリバと名付けられますが、このエピソードはモーセの話の後半にも関係してくるので、岩を打って水が出た話があったということだけ覚えておいてください。
② 日用の糧
こうして、新しいスタートにあたってまずは必要を満たしてくださるという話から始まるのはありがたいことですね。
神さまは私たちが生きていく上で何が必要かを知っていて、それを備えてくださるということです。
これについては、新約聖書でも語られていることですね。
主の祈りの中でも日用の糧を求めるようにと導かれています。
また、このようにも言われています。
マタイ 6:25 ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありませんか。
6:26 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。
もちろんそれは、私たちが働かなくても口を開けて待っていれば食べ物が与えられるということではありません。
私たちは相変わらず、この世界で生きていくために仕事をしていく必要もありますね。
でも、心配しなくてもいいということは私たちにとっては大きなことです。
生きることが心配になるあまり、神さまではなく世の中の価値観に従って歩んでしまうことも少なくないからです。
そんな私たちに、「心配しなくてもいいから、私に従いなさい」と主は言われるのです。
今、私たちが優先するべきは何でしょうか?
仕事であれば、それに専念するべきです。
しかし、それよりも優先すべきことが示されるなら、ぜひ安心してそれに従ってください。
③ つぶやき
しかし、この話の中に示されているのは良い部分ばかりではありません。
そこに神様の愛と優しさ、素晴らしさが語られる一方で、人の残念な部分も書き表されています。
それは、イスラエルの人々の不平不満です。
最初に読んだ中にもありました。
たどり着いたマラの水場の水が苦くて飲めなかったとき、イスラエルはこう言っています。
15:24 民はモーセに向かって「われわれは何を飲んだらよいのか」と不平を言った。
しばらくすると、このような出来事が起こります。
出エジプト 16:2 そのとき、イスラエルの全会衆は、この荒野でモーセとアロンに向かって不平を言った。
16:3 イスラエルの子らは彼らに言った。「エジプトの地で、肉鍋のそばに座り、パンを満ち足りるまで食べていたときに、われわれは【主】の手にかかって死んでいたらよかったのだ。事実、あなたがたは、われわれをこの荒野に導き出し、この集団全体を飢え死にさせようとしている。」
この出来事の後、主はイスラエルの人々にうずらとマナを与えました。
そしてさらに、メリバでもイスラエルは不平を漏らしていました。
出エジプト 17:3 民はそこで水に渇いた。それで民はモーセに不平を言った。「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのか。私や子どもたちや家畜を、渇きで死なせるためか。」
人々のこのような不平不満に応えるように奇跡を起こし、必要を満たしました。
それを通して、神さまの御業が起こったことは確かです。
神さまも、それによって「あなたたちは私が主であることを知る」と言っています。
しかし、後の話である民数記では、何年経っても不平不満ばかり言っているイスラエルに対して、神さまは怒りを燃やしています。
民数記 11:1 さて、民は【主】に対して、繰り返し激しく不平を言った。【主】はこれを聞いて怒りを燃やし、【主】の火が彼らに向かって燃え上がり、宿営の端をなめ尽くした。
最初は、イスラエルがまだ霊的に赤ちゃんだったから許されていたことだったからです。
私たちも赤ちゃんに対して自分で働いて稼げとは言いませんが、大人になった我が子に対しては自立して働くことを求めるのではないでしょうか。
私たちも同じです。
最初は、自分の願いを叶えてほしいとわがままを言いますが、いつまでもそうであってはいけません。
霊的に成長し、自立したら、私たちは不平不満を言うのではなく、神に信頼し、従って歩むようになるのです。
皆さんは今、どのステージにいるでしょうか?
そして、どうすることが求められているでしょうか?
最初は赤ちゃんとして、神さまに甘える期間も大切です。
でも成長したら、私たちは目先の何かはなかったとしても、神さまに従って歩むのです。