出エジプト19:4-6(19:1-20:26)出エジプト11 『選ばれた民として生きること』2025/05/10 けんたろ

出エジプト19:4-6(19:1-20:26)
19:4 『あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを見た。
19:5 今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。
19:6 あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。』これが、イスラエルの子らにあなたが語るべきことばである。」

エジプトを脱出した後のイスラエルの立場は、私たちクリスチャンと似た部分があります。
だから、主エジプトの中盤以降は、私たちにとって学ぶべき部分が多いという話をしてきました。
一つは、私たちの必要は満たされるという神さまへの信頼が必要だということ。
第二に、主の名のもとに一つとなるということの大切さを前回学びました。
今回は、イスラエルが神さまに選ばれたことについて自覚することの大切さです。

今日は十戒についても少し見ていきますが、実は先ほど読んだ聖書箇所が中心となっているのが大切なポイントとなっています。

① 祭司の王国

19:4 『あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを見た。

神さまは不思議な導きで敵から護り、ここまで無事にたどり着くことができました。
「鷲の翼に乗せて」というのは、そういう意味ですね。
大切なのはここからです。

19:5 今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。
19:6 あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。』これが、イスラエルの子らにあなたが語るべきことばである。」

イスラエルは何のために聖なる民族として神さまから選ばれたのか。
それは、祭司の王国となるためでした。
祭司の王国というのは、人と神の間に立って、人々に神を指し示す役割を担うということです。
そして、これから与えられる契約、十戒に沿って生きることを通して、神さまが本来人々に求めていた生き方を示すのです。

② 十戒とは何か

さて、皆さんは「十戒」と聞いたらどんな印象を持っていますか?
「十の戒め」なので、「してはならないことや、しなければならないことが十個書かれているのだろうと思うかもしれません。
「十戒」と訳されている言葉の言語には、本来「戒め」という要素はありません。
「十のことば」とされているものなのです。
そもそもこの「十戒」という言葉にしてしまったことに問題があるのだと思います。

伝統的にユダヤ人も、クリスチャンも、十戒を禁止事項のリストとして取り扱ってきました。
確かにこの部分だけ切り取れば、そう見えるのも仕方がないのですが、先ほどお話ししたように、これはイスラエルが神の祭司として人々にあるべき姿を指し示すための指針として与えられているものなのです。
それは、「守らなければならない戒め」として与えられたというよりも、「人のあるべき生き方」を示すものであり、「それを通して神さまの心を知るためのもの」なのです。

「あなたはこれこれをしてはならない」と言うのと、「あなたは人々に私のことを指し示すために、このように生きなさい」と言うのとでは、同じ内容のことでも印象がかなり変わると思いませんか?

初期のイスラエルは、ちゃんとこの言葉を生き方の指針として理解しいていたのではないかと思います。
ところが、いつしかその思いも薄れ、イスラエルは神様からも離れていってしまいました。
その結果として、北イスラエルも南ユダも異邦人に敗れ、捕囚されるという運命をたどったのです。
彼らはその反省から、神さまとの関係を見直すために律法のことを研究しました。
そして彼らは、自分たちが滅ぼされたのは神の律法を護らなかったせいだと結論づけたのです。
そのため、ユダヤ人は絶対的なルールとして「律法を護る」ということをかなり重要視します。
しかし、そこには本来の神さまの意図からずれた理解が広がってしまったというわけです。

③ 十戒とは何か

これから十戒の内容を実際に読んでみますが、禁止事項としてではなく、神さまが求めていることを他の人たちに指し示すための生き方の指針として意識して聞いてみてください。
細かいことに関しては次回(再来週)以降にお話ししますが、受け取り方がどんな風に変わるか体感してみていただきたいのです。

出エジプト 20:3 あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。
20:4 あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。

20:7 あなたは、あなたの神、【主】の名をみだりに口にしてはならない。【主】は、主の名をみだりに口にする者を罰せずにはおかない。
20:8 安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。

20:12 あなたの父と母を敬え。あなたの神、【主】が与えようとしているその土地で、あなたの日々が長く続くようにするためである。
20:13 殺してはならない。
20:14 姦淫してはならない。
20:15 盗んではならない。
20:16 あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない。
20:17 あなたの隣人の家を欲してはならない。あなたの隣人の妻、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを欲してはならない。」

禁止事項としてではなく、生き方の指針であり、人々に指し示すものとして考えてみたら、ここに書かれていることは信仰を持つ者として当たり前のことだと感じたのではないでしょうか?
新約聖書の中にある「御霊の実」と同じように、信仰を持っているならいたって普通の生き方なのです。
そして信仰を持つ人々が普通に送る生き方を通して、神を知らない人々がその素晴らしさを実感し、そのように生きたいと自ら求めるものなのです。
私たちにも同じ役割が与えられています。
周りの人たちに、神さまを指し示す生き方はできているでしょうか?
自分自身の信仰を顧みつつ、神さまを祈り求めて歩んでいきましょう。