出エジプト21:1-6 出エジプト12 『律法の読み方』2025/05/25 けんたろ
出エジプト21:1-6
21:1 これらはあなたが彼らの前に置くべき定めである。
21:2 あなたがヘブル人の男奴隷を買う場合、その人は六年間仕えなければならない。しかし七年目には自由の身として無償で去ることができる。
21:3 彼が独身で来たのなら独身で去る。彼に妻があれば、その妻は彼とともに去る。
21:4 彼の主人が彼に妻を与えて、その妻が彼に息子あるいは娘を産んでいたなら、この妻とその子どもたちは主人のものとなり、彼は一人で去らなければならない。
21:5 しかし、もしもその奴隷が『私は、ご主人様と、私の妻と子どもたちとを愛しています。自由の身となって去りたくありません』と明言するようなことがあるなら、
21:6 その主人は彼を神のもとに連れて行く。それから戸または門柱のところに連れて行き、きりで彼の耳を刺し通す。彼はいつまでも主人に仕えることができる。
前回から律法の話に入ってきました。
イスラエルはエジプトから脱出し、自由の身となりました。
そんなイスラエルの人々に与えられたのが「律法」、つまり主の教えだったわけです。
これまでエジプトで奴隷として生きてきたイスラエルには、みんなで生きていくための枠組みが必要でした。
これまでは、エジプトの法律の下に、奴隷としての常識を持って生きてきましたが、自由になった彼らは奴隷としてではなく、自由人としての生き方をしなければなりません。
その指針として、律法は彼らには必要不可欠なものだったのです。
そう考えてみると、律法について書かれている出エジプトの一部や、レビ記、民数記などは、私たちにはあまり意味のないことのように思えるかもしれません。
これは古代のへブル人たちには必要だったけれど、私たちは現代を生きる日本人なのですから律法は関係ないし、何よりもおもしろくない。
読んでいても頭に入ってこないし、読み飛ばしてしまいたくなる気もわかります。
そこで今回は、私たちは律法をどのように読み、何を受け取ればいいのかという話をしていきたいと思います。
① 時代背景から当時の常識を考える
さて、今日の聖書箇所、皆さんならどのように受け取り、理解するでしょうか?
文字通りそのままへブル人の奴隷をどのように扱うかという読み方はありますね。
でも、そのままでは私たちには関係のない話です。
私たちがまず考える必要があるのは、この時代の背景です。
律法にはなぜ、奴隷についての規定があるのでしょう?
「聖書の神は奴隷を肯定している。人権を否定する神だ」というアンチ活動をする人もいますが、もちろんそうではありません。
古代の世界は、奴隷がいなければ成り立たなかった奴隷社会だったということです。
そもそも現代の常識とはまるで違うので、今の感覚で考えること自体が間違いです。
当時の奴隷は思っていたよりも待遇が良かったという話もあります。
例えばピラミッド建築の労働者は奴隷でしたが、パンとビールが振舞われていたことが知られています。
じゃあ、今の会社員と同じだったのでは思いたくなる部分もありますが、そうも言いきれません。
奴隷はあくまでも主人の所有物あり、その扱いは家畜と同じです。
主人の好みでどうとでもできる部分もあり、だからこそそこには規定も必要になるわけです。
② 価値観を読み取る
私たちが律法を読み取るうえで大切な第二のことは、表面的なルールではなく背後にある価値観を読み解くということです。
社会が違うので、ここに書かれていることをそのままやろうとしても、私たちにはあまり意味がないですよね。
21:2 あなたがヘブル人の男奴隷を買う場合、その人は六年間仕えなければならない。しかし七年目には自由の身として無償で去ることができる。
と、今日の箇所には書かれていました。
奴隷になっても、その人は7年目には奴隷でなくなるということですね。
それぞれの事情もありますから、奴隷となって誰かのもとで働かなければならなくなることもあるでしょう。
でも、その人は7年後には解放しなければなりません。
その後、ちゃんと友人として接することができるような関係性を築く必要がありますね。
それは、主人と奴隷という関係性であっても、相手をちゃんと人として見なければならないことを意味しています。
その後には、7年経った後も、相手が生涯仕えたいと願うのであれば、それに応じなければならないということが書かれています。
これは、奴隷を使い捨てにせず、その人を生涯食べていかせる責任と覚悟が主人には必要だと教えているわけです。
原題の雇用者よりも、求められていることが大きいですね。
この後には女性奴隷に関しても書かれています。
出エジプト21:7 人が娘を女奴隷として売るような場合、その女奴隷は、男奴隷が去る場合のように去ってはならない。
21:8 彼女を自分のものと定めた主人が、彼女を気に入らなくなった場合は、その主人は彼女が贖い出されるようにしなければならない。主人が彼女を裏切ったのだから、異国の民に売る権利はない。
21:9 その主人が彼女を自分の息子のものと定めるなら、彼女を自分の娘のように扱わなければならない。
21:10 その主人が別の女を妻とするなら、先の女への食べ物、衣服、夫婦の務めを減らしてはならない。
21:11 もしこれら三つのことを彼女に行わないなら、彼女は金を払わないで無償で出て行くことができる。
これも、当時の社会を考えると、女性の立場は決して強くはなかったことがわかりますが、主人に求められている責任は妻や娘を迎えるのと同じくらい大きなことだということが分かります。
これは、古代の社会では考えられないほど高い倫理感です。
当時の社会でも、このような感覚で奴隷の主人となる人格者はいたでしょうが、イスラエルの民は、それを標準とすることが求められていたのです。
当時は底辺とされていた奴隷に対してさえこうなのです。
普通の人に対してはどのように接していたことでしょう?
③ 自分の行動や価値観に適用する
三番目に、聖書を読んで気づいたことを自分の行動や価値観として適用するということが大切です。
これがなければ、聖書に何が書かれているかどれだけ知っていたとしても、あまり意味がありません。
自分自身の価値観を顧みてみてください。
私たちは社員や部下をどのように見ているでしょうか?
夫や妻、自分の子どもに関してはどうでしょう?
「自分がどう扱われたか」ではなく、「自分がどう扱っているか」です。
人を人として扱い、相手の人生をどれだけ尊重できているでしょうか?
誰かを支配し、コントロールしたりはしていないでしょうか?
今の環境の中で、私たちはどのように接するべきなのでしょう?
その答えの中に、神さまが今私に求めていることが含まれていると思います。
できていない自分に気づいたら、私たちはまず、神さまに立ち返りましょう。
そして、方向転換して、価値観を変えることができるように、神さまに求めてみましょう。
私たちは、そのようにして少しずつ神の価値観を学び、神の愛を知り、神の似姿へと変えられていくのです。