出エジプト21:12-14(21:12-24:18) 出エジプト13 『律法の読み方2』 2025/05/31 けんたろ
出エジプト21:12-14(21:12-24:18)
21:12 人を打って死なせた者は、必ず殺されなければならない。
21:13 ただし、彼に殺意がなく神が御手によって事を起こされた場合、わたしはあなたに、彼が逃れることができる場所を指定する。
21:14 しかし、人が隣人に対して不遜にふるまい、策略をめぐらして殺した場合には、この者を、わたしの祭壇のところからであっても、連れ出して殺さなければならない。
先週の続きで、律法についての話です。
前回のように、一つ一つの律法をゆっくり見ていくことはできないので、21~24章までのことをざっくりお話ししていきます。
その中で、神さまの価値観がどこにあるのかということを見ていくことが、今回のポイントとなっています。
① 21~24章は十戒の補足
まず、21~24章に関しての全体像についてお話ししておくと、ここは十戒の詳細と補足の部分です。
モーセは20章のところで神さまから十戒を受け取りました。
そこでは細かい説明はないので、意味がくみ取りにくい部分もあるかもしれません。
それを、実例を挙げながら説明してくれているのが21~24章となっているのです。
例えば21章の後半は殺してはならないという教えの詳細となっています。
この箇所を通して、神さまの命に関する価値観が見えてきます。
十戒では「殺してはならない」という話だったのですが、ここでは「殺さなければならない」という言葉がたくさん出てくることに気づくと思います。
殺生を禁じるヒンズー・仏教的な価値観で十戒を捉えているとわけが分からなくなってしまうところですね。
ざっくり話すと、人を殺してはならないというのは、相手を恨んだり、憎んだり、復讐のためなどで殺してはならないという意味だということが分かります。
事故などの理由で過失によって殺してしまった場合には赦免されます。
現代の法律に近いですね。
② 大切な戒め
22章の1~15節は「盗んではならない」という教えの適用。
22章16~19節は「姦淫してはならない」という教えの適用。
20節は「他に神をもたない」ことの適用です。
21~27節に関しては少し十戒から外れて、立場の弱い人たちへの保護についての話となります。
28節は「主の名をみだりにとなえない」という教えに関すること。
29~31節は神にささげるべききよいものと、きよくないものに関してです。
この中で、「あなたの息子のうち長子は、わたしに献げなければならない」という言葉が出てきますが、生贄として捧げるということではありません。
長子は自分のものとしてではなく、神さまに献げたものとして考えなさいということですね。
23章の1~8節は、「偽証してはならない」という教えに関して。
10~19節は「安息日をまもる」ということに関して。
安息日に関しては大切な割に誤解しやすい部分でもあるので、どこかのタイミングでもっと詳しく話した方がいいかもしれません。
そして、20節以降は戒めのことに関してではなく、神さまの護りがイスラエルと共にあることを保証しています。
その条件は、イスラエルがいつも神さまと共に歩むことです。
それはつまり、神さまの教えを大切にするということでもあります。
③ 神さまの約束
24章では、神さまとモーセ、そしてイスラエルの民との間に契約が結ばれます。
それは、「私と共に歩むなら、そこには祝福がある」という神さまの約束です。
このあたりの捉え方には注意が必要だと個人的には思っています。
私たちは、神さまが守らなければならない律法を与え、それに従わなければ神さまは助けてくださらないとか、罰を与えると捉えてしまいがちです。
このようにして契約を結ぶということが出てくるので無理もないことだとは思うのですが、忘れてはならないのは、私たちはそもそも罪人であり、罪によって壊れた世界で生きているのだという事実です。
私たちは、神さまが創造した完璧な世界ではなく、罪によって秩序が壊れてしまった世界に生きています。
律法がどうだろうが、神さまがわざわざ罰を与えるまでもなく、私たち人間は滅びの道を進んでいるのが当たり前のことなのです。
そんな中で神さまは、私たちが進むべき道を示し、問題が起こらないように、互いに平和で生きられるようにこれらの教えを与えてくださったのです。
それをないがしろにして、私たちが問題を起こし、憎しみや争いを生み出さ至り、トラブルに自ら進んでいくのは私たち自身の問題ですよね?
そんな私たちがより幸せに生きられるように、少しでも神さまの懐に近づけるようにと与えたのが、「律法」と呼ばれる神さまの教えなのです。
この部分の捉え方を間違えると、私たちはこの戒めを護るためにルールの詳細が気になり、どこまでなら許されるのかというギリギリのラインを見つけようとし始めます。
そして、定められたルールを守っていればオッケーだと思い込んでしまいます。
でも、大切なのは私たちが神さまの心を求め、知り、それを大切にするということです。
大切なのは「ルール」ではなく、「神さまご自身」なのです。
与えられた律法は、神さまの心を知るための手がかりであり、それ以上のものではありません。
24章では、神さまがモーセとだけではなく、イスラエルの民全員に約束してくださることが記されています。
こうして神さま自らが保障をしてくださるって、すごいことだと思いませんか?
それは口約束ではなく、形式的にもしっかりと結ばれた約束でした。
イスラエルの民たちは、ここで示された一つ一つのことに返答をしています。
出エジプト24:3 モーセは来て、【主】のすべてのことばと、すべての定めをことごとく民に告げた。すると、民はみな声を一つにして答えた。「【主】の言われたことはすべて行います。」
しかし、この後何が起こったか、皆さんはご存じでしょうか?
神さまがイスラエルの民たちとじきじきに約束をしたこのすぐ後、民たちはそんな約束など聞いていなかったかのようにふるまうのです。
そのことに関しては、また別の時に詳しくお話しすることにしましょう。
私たちは、イスラエルと同じ失敗をしてしまうことなく、心から神さまと共に歩むものであれますように…。