レビ23:15-21『五旬節(ペンテコステ)が意味すること』2025/06/08 けんたろ

レビ23:15-21
23:15 あなたがたは、安息日の翌日から、奉献物の束を持って行った日から満七週間を数える。
23:16 七回目の安息日の翌日まで五十日を数え、あなたがたは新しい穀物のささげ物を【主】に献げる。
23:17 あなたがたの住まいから、十分の二エパの小麦粉にパン種を入れて焼いたものを二つ、奉献物としてのパンとして持って行く。これは【主】への初物である。
23:18 そのパンと一緒に、【主】への全焼のささげ物として、傷のない一歳の雄の子羊七匹、若い雄牛一頭、雄羊二匹、また、【主】への食物のささげ物、芳ばしい香りとして、彼らの穀物のささげ物と注ぎのささげ物とを献げる。
23:19 また、雄やぎ一匹を罪のきよめのささげ物とし、一歳の雄の子羊二匹を交わりのいけにえとする。
23:20 祭司はこれら二匹の雄の子羊を、初穂のパンと一緒に、奉献物として【主】の前で揺り動かす。これらは【主】の聖なるものであり、祭司のものとなる。
23:21 その同じ日に、あなたがたは聖なる会合を召集する。それは、あなたがたのためである。いかなる労働もしてはならない。これは、あなたがたがどこに住んでいても、代々守るべき永遠の掟である。

今日はペンテコステの日だそうです。
皆さんは、ペンテコステとは何の日かご存じでしょうか?
ほとんどのクリスチャンは、「聖霊が下った日」だと答えるのではないでしょうか。

使徒の働きを見ればペンテコステの日に聖霊が下った話が書かれていますから、それは間違いではないのですが、ペンテコステがもともと何の日だったかを理解することによって、聖霊が与えられたことの意味がより深く理解できるのではないかと思います。

① 五旬節

ペンテコステは、ユダヤ人たちが祝う三大祭りの一つで、ヘブル語ではシャブオットと呼ばれます。
日本語では、五旬祭とか五旬節、あるいは七週のお祭りという呼び方をしますね。
ペンテコステの「ペンテ」の部分は五角形を表すペンタゴンの「ペンタ」と同じで、5を表す言葉なのです。

では五旬節は何のお祭りなのかというと、収穫のお祭りです。
つまり、ユダヤ人のお祭りの中で最も重要なお祭りである初穂の祭りから数えて、50日目のお祭りが五旬節、ペンテコステなのです。

皆さんは、初穂の祭りのことを覚えていますか?
多くの場合は、このお祭りを別の名まえで覚えていると思います。
初穂の祭りというのは、過ぎ越しの祭りの最終日のことを意味しているのです。
過越しの祭りはへブル語で「ペサハ」と呼ばれ、1週間行われる祭りです。
この過越し祭の中心となるのが、最終日である日曜日に行われる、初穂の祭りです。

この辺まで話せば思い出す方も多いと思います。
これは、イースターの時にお話ししたことですね。
私たちはイエスさまの復活を祝う日をがイースターと呼んでいますが、聖書的には過越し祭の最終日、初穂の日の話だということがわかります。

少し気になるのは、過越しの時には種なしパンを作ったのに、五旬節で捧げるのは種の入ったパンだということです。
パン種(イースト菌や酵母菌)は罪を表すことが多いですから、イエスさまを表す過ぎ越しのパンは種なしパンである必要がありました。
そう考えてみると、五旬節のパンにパン種が入っているのは、罪人である私たちを意味しているということが分かってきます。

これに関しては特に、「罪があるありのままの私たちとして主の前に行く」ということが意味されているとも言われます。
さらに、ここで捧げられる二個のパンは、ユダヤ人と異邦人を表しているとも言われます。

② ペンテコステが意味すること

そのつながりで考えてみると、ペンテコステの日に聖霊が与えられたということは、単にそれだけの出来事ではないということが分かります。
イエスさまがまず、初穂として死から蘇ってくださいました。
その五十日後、五旬節の日に信仰を持った人たち聖霊が下ったのです。
それは、単に異言が話せるようになったとか、奇跡が行えるようになったということではありません。
それは、聖霊が下る前から起こっていたことです。

そこで意味するのは、信仰を持ったクリスチャンたちもまた、復活したイエスさまと同じようにされるということです。
聖霊が私たちの内に住むのですから、私たちはもはや私たちだけでいるのではなく、神さまが共におられるのです。

とは言え、私たちは一人でイエスさまと同じことができるわけではありません。
キリストの体の一部として、それぞれが繋がりを持ち、協力し合うことによってその役割を果たしていくわけです。
そのための力もまた、聖霊によって与えられています。
私たちはそれを賜物と呼びます。
つまり賜物とは、私たちが神さまの働きをするために与えられているものですね。

それを考えると、「これからの人生を生きていくために賜物を使って何をしよう」という考え方は、本来間違っているのでしょうね。
私たちが生きていくために与えられているのは才能であり、それは私たちの中に元からあるものです。

③ 聖霊の力か自分の力か

私たちの多くがそうであるように、福音派で育ったクリスチャンの多くは聖霊が内に住んでくださっているということを軽視しています。
そんな超自然的な話よりは、聖書の知識とか、神学という理屈で考えられることを重視する傾向があります。
一方で、ペンテコステやカリスマ派の人たちの多くは、聖霊を何か不思議な力として認識し過ぎの傾向があります。
力が強調されるあまり、何か不思議な出来事が起こっていないと神の力はないかのように考えてしまいがちです。

聖霊が私たちの内に住むということは、そのどちらの認識も不十分だと思います。
聖霊が私たちの内に住むということは、私たちと共に神様が共におられるということです。
私たちがそれを望むなら、私たちはいつでも自分自身を明け渡し、神さまが主導権を持って私たちを用いてくださいます。
クリスチャンとして生きるというのは、イエスさまを私たちの主として向か入れるということですから、本来そういうことなんです。

私たちが自分の自我にしがみついて、思い通りに生きようとするなら、私たちが信仰を持って聖霊に住んでいただいても、正直生き方は何も変わりません。
しかし、私たちが主の御心を求めて、自らを明け渡すなら、クリスチャンとしての私たちの人生はそれまでの生き方とは大きく変わって行くはずです。
皆さんはどちらの道を選ぶでしょうか?

私たちは、神さまの第二の収穫物として、それぞれに与えられている役割や使命があります。
キリストの体として生きるため、自らを明け渡していきませんか?
簡単な生き方ではありませんが、そこにはたくさんの喜びが待っているはずです。