出エジプト25:1-9(25:1-27:21)出エジプト14『契約の箱と幕屋』2025/06/22 けんたろ 

出エジプト25:1-9(25:1-)
25:1 【主】はモーセに告げられた。
25:2 「わたしに奉納物を携えて来るように、イスラエルの子らに告げよ。あなたがたは、すべて、進んで献げる心のある人から、わたしへの奉納物を受け取らなければならない。
25:3 彼らから受け取る奉納物は次のものである。金、銀、青銅、
25:4 青、紫、緋色の撚り糸、亜麻布、やぎの毛、
25:5 赤くなめした雄羊の皮、じゅごんの皮、アカシヤ材、
25:6 ともしび用の油、注ぎの油と、香り高い香のための香料、
25:7 エポデや胸当てにはめ込む、縞めのうや宝石である。
25:8 彼らにわたしのための聖所を造らせよ。そうすれば、わたしは彼らのただ中に住む。
25:9 幕屋と幕屋のすべての備品は、わたしがあなたに示す型と全く同じように造らなければならない。

今回は、タイトルの通り契約の箱と幕屋についての話です。
実は、このあたりの話をどの程度の深さで話すかということに関して少し迷っていました。
契約の箱に関しても、幕屋に関しても、どのように作るかということに関して描写が細かいので、一つ一つについて解説していくべきかと考えたりもしました。
そのためにいろいろ調べてみるのも面白いことだと思うので、それもやぶさかではなかったのですが、今回はそれをしないことにしました。
細かい一つ一つのことに意味があるとしても、一本一本の木に捕らわれてしまうことは、森が見えなくなる原因に繋がると思ったからです。

聖書を読む上で大切なのは、聖書の全体像を理解した上で読み取っていくことです。
細かい描写の部分に目を留めていたのでは大切なものを見失うことになり、細かいことを知っていることが大切だということに繋がってしまいます。
まずは、契約の箱とか幕屋とは何なのかというところを押さえておきましょうということですね。

① 契約の箱

まずは、契約の箱から見ていきましょう。
契約の箱とは、神さまの臨在を象徴するものです。
箱の中には十戒を刻んだ石の板と、マナが入ったつぼ、アロンの杖が入れられました。
律法を刻んだ石の板は、生ける石であり神の言葉、マナはいのちのパン、アロンの杖は大祭司のしるし、全てはキリストを表すものが収められていました。

その上には「宥めの蓋」と呼ばれるふたがされていて、金で覆われた2匹のケルビムが向かい合わせにして置かれています。
これは、イエスさまがなだめの供えものとなってくださることによって、私たちの罪を贖うことの象徴となっています。

蓋を覆うようにあるケルビムは、天と地を分ける存在です。
アダムとエバがエデンの園から出されたとき、回る炎の剣と共にいたのケルビムですね。
私たちが神の元に戻れるかどうかを分けるのが、この契約の箱に象徴されている存在なのです。

箱の横には2本の棒が通されていて、移動するときには神輿のようにして運ばれました。

② 幕屋

そして、この契約の箱を置くための場所として幕屋が作られました。
これに関しても、神さまが材質や大きさに至るまで細かく作り方を指示しています。
幕屋は簡易的な移動式の神殿ですが、これが完成形でもあります。
カナンの地むようになったイスラエルは神殿を建造しましたが、それは神様の指示によるものではありませんでした。
神さまが作るようにと言ったのは幕屋だけです。

さて、幕屋には幕で仕切られた庭の部分が存在します。
それは、内と外が区切られていることを意味しています。
かつてアダムとエバはエデンの園の中、つまり神さまの側にいましたが、外に出されてしまいました。
神さまとの関係においては、内にいるのか外にいるのかというような重要なのです。
そこに入るためには門がありましたが、イエスさまはこのように言っています。

ヨハ 10:9 わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。

イエスさまを通してでなければ、神さまの側に入ることはできないのです。
他にも、水を溜めた洗盤は生ける水としてのキリスト、祭壇はいけにえとしてのキリスト、金の燭台は光としてのキリスト、供えのパンはいのちのパンとしてのキリスト、その全てがイエスさまを指し示すものです。

幕の内側にには聖所があり、さらにその奥には至聖所と呼ばれるもっとも神聖な場所があります。
天幕の内側と外側はとても大切な要素だという話をしましたが、奥に行くほどに神さまに近づくことになります。
その最も深いところであり、中心となる場所が至聖所であり、そこには契約の箱が置かれています。
そして、不用意にそこに入る者は死んでしまいます。
罪人となってしまった私たち人間は、神さまの前に出ることができないからです。

③ 契約の箱と幕屋を通して学べる事

私たちは、契約の箱と幕屋を通して何を学べばよいのでしょうか?
その一つは、神さまが私たちの間に来てくださるということです。

25:8 彼らにわたしのための聖所を造らせよ。そうすれば、わたしは彼らのただ中に住む。

これは、幕屋の存在自体がイエスさまを指し示すものであり、神さまの思いを表しているということです。
神さまは私たちの内に来てくださり、共に住んでくださるのです。

第二に、私たちの側も主に近づいていく必要があるということです。
幕屋は幕で覆われていると話しましたが、私たちはその内側に入る必要があります。
そして、さらに深みへと近づいていく必要があるのです。

罪人のままの私たちは、本来最も聖なる場所である神さまの臨在の場所、至聖所には入ることができませんでした。
しかし、イエスさまが十字架にかかって命を投げ出した時、至聖所の垂れ幕が避けて、最も奥との境目はなくなりました。
幕屋の中にいる人、つまり神さまの側に立つ人は誰でも、神さまとの深い関係を持つことができるようになったのです。

私たちの中にはまだ遠慮があるのではないでしょうか。
私たちは、神さまにもっと大胆に近づくべきです。
神さまご自身がそれを求めておられるのですから。