出エジプト34:1-9(34:1-35) 出エジプト18 『顔の覆いを取る』 2025/08/03 けんたろ
出エジプト34:1-9(34:1-35)
34:1 【主】はモーセに言われた。「前のものと同じような二枚の石の板を切り取れ。わたしはその石の板の上に、あなたが砕いたこの前の石の板にあった、あのことばを書き記す。
34:2 朝までに準備をし、朝シナイ山に登って、その山の頂でわたしの前に立て。
34:3 だれも、あなたと一緒に登ってはならない。また、だれも、山のどこにも人影があってはならない。また、羊でも牛でも、その山のふもとで草を食べていてはならない。」
34:4 そこで、モーセは前のものと同じような二枚の石の板を切り取り、翌朝早く、【主】が命じられたとおりにシナイ山に登った。彼は手に二枚の石の板を持っていた。
34:5 【主】は雲の中にあって降りて来られ、 彼とともにそこに立って、【主】の名を宣言された。
34:6 【主】は彼の前を通り過ぎるとき、こう宣言された。「【主】、【主】は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、
34:7 恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。しかし、罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる者である。」
34:8 モーセは急いで地にひざまずき、ひれ伏した。
34:9 彼は言った。「ああ、主よ。もし私がみこころにかなっているのでしたら、どうか主が私たちのただ中にいて、進んでくださいますように。確かに、この民はうなじを固くする民ですが、どうか私たちの咎と罪を赦し、私たちをご自分の所有としてくださいますように。」
イスラエルは金の子牛の偶像を作って、それを神々とするというとんでもない罪を犯してしまいました。
神さまの怒りによって滅ぼされてしまうところを救ったのはモーセの執り成しでした。
こうして、再び平和が訪れた神さまとイスラエルのために、モーセが怒って壊してしまった十戒の板を、神さまはもう一度授けたのです。
そうして、先ほど読んだ聖書箇所でのやり取りがあるわけです。
① もう一つの戒め
前回と同じ十戒が授けられた後、神さまはイスラエルとの間に契約を結びます。
出エジプト 34:10 主は言われた。「今ここで、わたしは契約を結ぼう。わたしは、あなたの民がみないるところで、地のどこにおいても、また、どの国においても、かつてなされたことがない奇しいことを行う。あなたがそのただ中にいるこの民はみな、【主】のわざを見る。わたしがあなたとともに行うことは恐るべきことである。
主と共にいる限り、イスラエルには神さまの護りがあります。
そしてそこにはいつも驚くべき御業があり、他の国々はそれを見て驚くのです。
しかし、そのためにはイスラエルの側にも守らなければならないことがありました。
- 第一に、これから入っていくカナン人とどんな契約も結ばないこと。(11-12)それどころか、彼らの偶像を破壊するように命じました。それは、イスラエルが簡単に影響を受けてしまう民であることが分かったからです。
- 第二に、鋳物の神々を造らないこと。(17)これも十戒の中にありますが、彼らには前科があるので改めて注意されます。
- 第三に、種なしパンの祭りを守ること。(18)これは、過ぎ越しの祭りのことですね。
- 第四に、初子を神さまに捧げること。(19-20)ただし、ロバと人間の子どもは別の動物を代わりに捧げます。
- 第五に、6日間働いて7日目は休まなければならないということです。(21)安息日ですね。
- 第六に、七週の祭りを祝うこと。(22)これはペンテコステのことですね。
- 第七に、全ての民は年に三回は神様の前に出るということです。(23-24)先に挙げた種なしパンの祭り、七週の祭りも含めますからもう一つですね。イスラエルでは仮庵の祭りを含めて三代祭りが祝われます。
- 第八に、いけにえを捧げるときに注意です。いけにえの血を種入りのパンに添えないこと。そして過ぎ越しのいけにけを朝まで残さないことです。(25)
- 第九に、初穂の最上のものを主に捧げること。(26)
- 第十に、子ヤギを母の乳で煮てはならないことです。(26b)
最初の二つは、イスラエルの人々がいきなり破った偶像崇拝に関する戒めについての補足という感じがしますが、それ以降は儀式や祭りに関することがほとんどです。
ここでは詳しく解説しませんが、実はそれぞれがイエスさまのことを表しています。
第十の契約に関しては僕の中でもまだ答えは出ていませんが、他のと同じようにイエスさまのことを表しているのではないかと推測しています。
② 顔が輝くモーセ
モーセは再び、四十日の間シナイ山に留まり、十戒の板にこの十の契約を書き記しました。
シナイ山から降りてきたモーセの顔は、光を放っていましたが、自分ではそれに気づいていませんでした。
出エジプト 34:29 それから、モーセはシナイ山から下りて来た。モーセが山を下りて来たとき、その手に二枚のさとしの板を持っていた。モーセは、主と話したために自分の顔の肌が輝きを放っているのを知らなかった。
34:30 アロンと、イスラエルの子らはみなモーセを見た。なんと、彼の顔の肌は輝きを放っていた。それで彼らは彼に近づくのを恐れた。
その輝きは、神さまの栄光の輝きです。
主と共に過ごした人々は、その栄光を反射して光り輝くことができます。
もちろんそれは、物理的に観測できる光ではないかもしれませんが、イエスさまが「あなたがたは世の光です」と言ったそのような光を放ち、人々はそれを感じ取ることができるのです。
このことについて、パウロはこのように書いています。
第二コリント 3:7 石の上に刻まれた文字による、死に仕える務めさえ栄光を帯びたものであり、イスラエルの子らはモーセの顔にあった消え去る栄光のために、モーセの顔を見つめることができないほどでした。そうであれば、
3:8 御霊に仕える務めは、もっと栄光を帯びたものとならないでしょうか。
3:9 罪に定める務めに栄光があるのなら、義とする務めは、なおいっそう栄光に満ちあふれます。
3:10 実にこの点において、かつては栄光を受けたものが、それよりさらにすぐれた栄光のゆえに、栄光のないものになっているのです。
3:11 消え去るべきものが栄光の中にあったのなら、永続するものは、なおのこと栄光に包まれているはずです。
3:12 このような望みを抱いているので、私たちはきわめて大胆にふるまいます。
私たちもまた、聖霊によってこのような光を帯びています。
それは、モーセの輝きよりももっと激しく、素晴らしい輝きなのです。
③ 顔の覆いを取る
しかしモーセは、それを見た人々が恐れるので、顔に覆いをかぶせました。
そして、人々と会うときは顔に覆いを掛け、神さまと語るときだけその覆いを外しました。
それは、人への配慮ではあるかもしれませんが、正しい行動とは言えません。
神さまの栄光を隠すような行為だからです。
パウロはこのように続けています。
第二コリント 3:13 モーセのようなことはしません。彼は、消え去るものの最後をイスラエルの子らに見せないように、自分の顔に覆いを掛けました。
3:14 しかし、イスラエルの子らの理解は鈍くなりました。今日に至るまで、古い契約が朗読されるときには、同じ覆いが掛けられたままで、取りのけられていません。それはキリストによって取り除かれるものだからです。
3:15 確かに今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心には覆いが掛かっています。
3:16 しかし、人が主に立ち返るなら、いつでもその覆いは除かれます。
3:17 主は御霊です。そして、主の御霊がおられるところには自由があります。
3:18 私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。
主と共に過ごすなら、私たちの顔も主の栄光に満たされ、輝きを放ちます。
私たちはその輝きに覆いをし、隠すようなことをしてしまっていないでしょうか?
明かりを灯してから覆いで隠す人はいません。
私たちは世の光として、大胆に主の栄光でこの世界を照らしていこうではありませんか。