出エジプト39:1-5(39:1-40:38) 出エジプト20『主が命じられた通りに』 2025/08/17 けんたろ

出エジプト39:1-5(39:1-40:38)
39:1 彼らは、青、紫、緋色の撚り糸で、聖所で務めを行うための式服を作った。また、【主】がモーセに命じられたとおりに、アロンの聖なる装束を作った。
39:2 金色、青、紫、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を用いて、エポデを作った。
39:3 彼らは金の板を打ち延ばして金箔を作り、これを切って糸とし、青、紫、緋色の撚り糸に撚り込み、それぞれ亜麻布の中に意匠を凝らして織り込んだ。
39:4 エポデに付ける肩当てが作られ、それぞれがエポデの両端に結ばれた。
39:5 エポデの上に来るあや織りの帯はエポデと同じ作りで、金色、青、紫、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を用い、エポデの一部となるようにした。【主】がモーセに命じられたとおりである。

出エジプト記はついに最終回です。
普通に読み進めてくると、ただただ「〇〇を作った」ということが続く退屈なところですが、全体像を通して見た時にはひとつの区切りとなる大切な到達地点です。
出エジプト記は、1から40章の全体を通して、信仰者の歩みを示しているのです。

① イスラエルの歩み

出エジプト記の始まりの時、イスラエルはエジプトの奴隷としてスタートしました。
奴隷の状態とは、私たちが罪に捕らわれてどうすることもできない状態を表しています。
私たちは何も知らないし、自由に生きることもできない。
ただ捕らわれて、悪魔の支配の下に置かれていたわけです。

奴隷の状態から解放されるために、イスラエルにはモーセとアロンが送られました。
そこでは過ぎ越しの羊がささげられ、イスラエルはエジプトから解放されたのです。

さて、奴隷から解放されたイスラエルは何も知らず、どうやって生きればいいか全くわからない状態でした。
そんなイスラエルには律法が与えられる必要があったのです。
律法によって人々は、どのように生きるかという枠組みと道しるべを得ました。
これはイスラエルにとって大切なことであり、現在に至るまで律法を与えられたことを誇りにするほどです。

さて、紆余曲折があり、神さまから背いてしまうようなこともありましたが、モーセの執り成しや導きもあって、イスラエルは神様に従うことを覚えました。
その流れの中で出エジプト記の後半を読んでいくと、面白いことに気づきます。
そこには「主が命じられたこと」という言葉が30か所以上出てくるのです。
出エジプト記は40章までありますが、34~35章の間では、「主が命じられたこと」についてモーセがイスラエルの人々に伝える様子が描かれています。
36~38章では、モーセが主が命じられたことに従うように指導する様子が描かれ、ベツァルエルを始めとする人々が従い始めます。
そして、39~40章では、イスラエルが「主が命じられた通りに行った」という言葉が20回近く出てきます。

つまり、出エジプト記はイスラエルが奴隷だった状態から始まり、神さまに従うようになったことを描いた物語となっているわけです。

② 信仰者の歩み

では、私たちクリスチャンはどうでしょう?
実は、出エジプト記の中にあるイスラエルの人々の歩みと同じような歩みを、私たちもたどっています。

イスラエルにモーセが与えられたのと同じように、私たちにはイエスさまが送られました。
モーセを通して律法が教えられ、神さまの思いが伝えられましたが、イエスさまは神さまご自身です。
神さまご自身としてより正確に、神さまの意思を私たちに伝えました。
イエス様ご自身が過越しの羊となってくださり、私たちは罪の奴隷状態から解放されたのです。

イスラエルには律法が与えられましたが、私たちにはそれ以上の素晴らしいものが与えられました。
それは聖霊です。

律法は文字によってするべきことと避けるべきことを示しました。
しかし、それが分かっても実行することができない自分の中にある罪の性質が明らかにされていきました。
一方で聖霊は、心の内に律法を刻み、私たちがするべきことと避けるべきことを明らかにします。
もちろん、それでも私たちは聖霊に歯向かうこともできますが、新しい命に歩ませるものとして、私たちに力を与える存在なのです。

ローマ 7:6 しかし今は、私たちは自分を縛っていた律法に死んだので、律法から解かれました。その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。

ガラテヤ 5:18 御霊によって導かれているなら、あなたがたは律法の下にはいません。

そして聖霊は、直接私たちを導くことによって、私たちが神さまに従えるように促してくださいます。
私たちの内に沸き起こる思いや、神さまを愛する心によって、私たちは神様に従う者となっていくのです。
それが、クリスチャンとしての歩みでもあります。

③ 主が命じられた通りに歩む

先週もお話ししたことですが、大切なのは主が命じられた通りに行動するということです。
律法の時代は、書かれた言葉に従ってそれを守ることによってしか生きることができませんでした。
それも大切なことではありましたが、そこには自分たちの解釈や周りの価値観、その時代の常識のようなものも混ざっていきました。

私たちにとって素晴らしいことは、聖霊として神さまご自身が私たちの内に住んでくださり、私たちを直接導いてくださるということです。
私たちはそれぞれに神さまの導きを受け取ることができ、それに従って行動する力も与えられます。

私たちは教義や教理のような文字の律法に戻るようなことや、世の中の価値観に影響を受けた勝手な解釈をするのではなく、いつも神さまからの言葉を直接受け取って従う者でありたいですね。