レビ記1:1-9(1:1-5:19) レビ記1 『なぜいけにえを捧げるのか』2025/08/24 けんたろ

レビ記1:1-9(1:1-5:19)
1:1 【主】はモーセを呼び、会見の天幕から彼にこう告げられた。
1:2 「イスラエルの子らに告げよ。あなたがたの中でだれかが【主】にささげ物を献げるときは、家畜の中から、牛か羊をそのささげ物として献げなければならない。
1:3 そのささげ物が牛の全焼のささげ物である場合には、傷のない雄を献げなければならない。その人は自分が【主】の前に受け入れられるように、それを会見の天幕の入り口に連れて行き、
1:4 その全焼のささげ物の頭に手を置く。それがその人のための宥めとなり、彼は受け入れられる。
1:5 その若い牛は【主】の前で屠り、祭司であるアロンの子らがその血を携えて行って、会見の天幕の入り口にある祭壇の側面にその血を振りかける。
1:6 また、全焼のささげ物はその皮を剝ぎ、各部に切り分ける。
1:7 祭司であるアロンの子らは祭壇の上に火を置き、その火の上に薪を整える。
1:8 祭司であるアロンの子らは、その切り分けた各部と、頭と脂肪を祭壇の火の上の薪の上に整える。
1:9 内臓と足は水で洗う。祭司はこれらすべてを祭壇の上で焼いて煙にする。これは全焼のささげ物、【主】への食物のささげ物、芳ばしい香りである。

さて、今日から皆さんお待ちかねのレビ記のシリーズに入ります。
創世記から始まり、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記と続く5冊をモーセ五書と呼びますが、伝統的にこの5冊はモーセが書いた、あるいは書かせたものであると言われています。

その中でのレビ記の位置づけはというと、出エジプト記の続きというよりはおまけという感じの本です。
イスラエルという民族の中の、レビ族と呼ばれる人について書かれています。
しかも、レビ人の中から任命される祭司の働きについて書かれたものとなります。
さらにテーマをあげるなら、「神聖さ」というところに焦点が当てられていると言えるでしょう。

さて、聖書を旧約から通して読もうとして、挫折する人が多いのがこのレビ記です。
その理由は、レビ記にはストーリー性が全くないことが一つ。
自分にどんな関係があるのか分かりにくいということも、もう一つの理由でしょう。
でも、読み方のコツがつかめると案外シンプルなのがレビ記でもあります。
これから数週間をかけて、皆さんにはレビ記の読み方のコツのようなものを掴んでいただければと思っています。

① なぜいけにえなのか

レビ記は、いけにえのささげ方から始まっています。それはなぜでしょう?
そもそも、現代人の私たちからすると、いけにえなんて残酷な感じがします。
神さまはなぜ、そのようなものを求めたのでしょう?

それを理解するためには、そもそも人間がどのような存在で、今はどのような状態なのかということを理解する必要があります。
それが描かれていたのは創世記の最初の方ですね。
人は、神さまを愛し、愛される永遠の存在として創造されました。
人は永遠の時を神と共に過ごすはずだったのです。
しかし、人は神様に背き、離れてしまいました。
その状態を聖書では罪と呼んでいますね。

人は、永遠の命の源である神さまから離れてしまったので、永遠に生きることはできなくなってしまいました。
人は、神さまから離れて霊的に死んだものとなり、それゆえに肉体的にも死ぬ存在となってしまったのです。
いけにえというのは、私たちがその死を他の存在に肩代わりしてもらうことを意味しています。
つまりいけにえというのは、私たちが本来このように死すべき存在であり、他の命によって贖われる…つまり命を買い取ってもらう必要のある存在だということを知るためのものなのです。

② レビ記はなぜいけにえから始まる?

それでは、私たちの命の代わりに牛や羊の命を犠牲にしたからと言って、私たちの罪が本当に赦されることになるのでしょうか?
何かがおかしいのではないか? そう思った方がいたら鋭いです。
確かに、実際には家畜をささげても、それによって罪が赦されるわけではありません。
聖書は、私たちは特別な存在であり、他の動物とは区別されています。
動物の命と、私たちの命とでは釣り合わないのです。
もちろん、人間をいけにえとしたところで、それはその人一人分の罪を支払ったことにしかなりません。
聖書の価値観を土台に考えるなら、いけにえというシステムは本来成り立たないはずなのです。

この時にささげられるいけにえとは、後に来る存在を象徴的に暗示するものです。
何が象徴として隠されていたのでしょう?
それは、イエス・キリストです。

③ レビ記で示される5つのいけにえ

そう考えてみると、レビ記の中で記されているいけにえはすべてイエスさまのことを表していたことが分かります。
レビ記には、全焼のささげ物、穀物のささげ物、交わりのいけにえ、罪のいけにえ、罪過のいけにえという5つのいけにえが記されています。
ここでは簡単に紹介しますが、表されているイエスさまをご自身で発見してみてください。

第一に、全焼のいけにえは、全てを完全いささげなければならないことを表しています。
イエスさまは、ご自身のすべてを神さまに委ねられました。
その人生の全てを、父なる神のために捧げたのです。

第二に、穀物もまた、イエスさまを表します。
穀物は砕かれ、パンになります。
聖書の中で穀物やパンが出てくるときには、それがイエスさまを象徴しているものとして読み取ってみてください。
何かが分かるのではないかと思います。

第三に、交わりのいけにえ(和解のささげ物)です。イエスさまがいけにえとなったのは、神さまとの和解のためだったということです。
つまりこれは、「神さまとの関係が壊れてしまった」という私たちの中にある本質的な問題からの回復のためにいけにえが必要だったということが表されています。

第四に、罪のきよめのささげものは、行いとしての罪の赦しを表しています。
聖書の中で罪という言葉が出てくるときは、多くの場合は神さまとの関係が壊れている状態のことを意味していると私はよく話しますが、それは第三のいけにえのところで話されています。
では、行いの罪に関しては赦されないのかと言えばもちろんそうではなく、行いの罪も赦されることが表されています。

第五に、罪過/咎のいけにえ(代償のささげ物)です。
「罪」は、神さまが命じていたことに知らずに背いてしまっていた無自覚なものを表すのに対して、罪過(咎)は自ら進んで犯した悪い行いを意味しています。
いわゆる犯罪もここに入りますし、そうでなくても悪質なものですね。
そのような罪のためにも、イエスさまは命を投げ出したということが表されています。
そして、そのような罪でさえ赦されるのです。

その罪を赦すための支払いは、すでに完了しています。
イエスさまが十字架で命を投げ出すことによって支払ってくださったのです。
後は、私たちがそれを受け取るだけです。
罪の赦しを必要としている人はいるでしょうか?
もしいらっしゃったら、イエスさまのもとに行くことをお勧めします。
イエスさまが私たちの罪を支払うことのできる資格を持つ方であり、すでに支払ってくださったことを信じるなら、誰でもそれを受け取ることができるのですから。