マタイ3:1-17 悔い改めよ、天国は近づいた」ー旧約から新約へ転換 2025/08/31 小西孝蔵

  • はじめに-旧約聖書から新約聖書へ

・NHK朝ドラ「アンパン」のやなせたかしが「戦争体験で学んだことは、逆転する正義。彼は、逆転しない正義は、貧しくておなかをすかしている人にパンを分けてあげることだと悟った。即ち、隣人への愛が本当の正義だという。先週は、子供向けの「愛する歌」という詩集が大ヒットした場面が放映。この世の正義は揺れ動くものであるが、神の義は逆転しない正義であることを聖書は示している。今日のメッセージとも関連。

・7年間の旧約聖書の学び、3年間の預言書の学びの後は、新約聖書の福音書を学んでみたい。特に、イザヤ書では、捕囚の苦しみある民に対して慰めよ、受難の僕を通して、神のもとに立ち返れという預言。そして、エレミヤ書を通じて、神は、民と新しい契約を結び、その心に律法を記す預言、それは、キリストの十字架の贖いによる救いを約束する預言を学んだ。今回は、旧約から新約へのの橋渡し役をしたバプテスマのヨハネを取り上げる。

  • バプテストのヨハネの意義-悔い改めの預言

〇マタイ3章1~3節「1そのころ、バプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教を宣べて言った、 2「悔い改めよ、天国は近づいた」。 3預言者イザヤによって、「荒野で呼ばわる者の声がする、『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』」と言われたのは、この人のことである。

・洗礼者ヨハネは、イエスを指し示す、最後の預言者。4福音書すべてに取り上げられている重要な役割。キリストの誕生物語(マタイ、ルカ)以上に大事だと思う。キリストの生涯の中で、十字架と復活の記事とパンの奇跡以外では、洗礼者ヨハネとイエスの受洗の出来事だけが4福音書すべてに記述されている。バプテスマのヨハネに対するイエスの評価も極めて高い。「預言者以上のもの、地上で彼以上に偉大なものはいない」(ルカ7(26))。

・この聖句は、イザヤ書40章の預言から引用されているが、ヘンデルのメサイヤの冒頭にうたわれる。先日、教会の皆さん何人かと一緒に東京芸大のコンサートに聴きに行ったバッハのカンタータ30番の第1部でも紹介されていた。

・「悔い改めよ」は、ギリシャ語で、メタノイア、視座の転換という意味。メタバースのメタは、超えるという意味。メタノイアは、「回心」、「立ち帰る」と同義。イザヤ書の預言でも、主に立ち帰れという言葉が何回も使われている。イザヤ書55章7節「悪しき者はその道を捨て、・・・われわれの神に立ち帰れ、主は豊かにゆるしを与えられる。」 神様に立ち帰るとは、断絶された神様との関係が回復されること。

〇マタイ3章「8だから、悔改めにふさわしい実を結べ。 9自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな・・・」

・悔い改めは、心の底から変わる、親元から離れていた放蕩息子が、「私は罪を犯しました。もう息子といわれる資格はありません」と告白して父の身元に立ち返ること。形だけの悔い改めの印ではなく、砕けた心が必要。悔い改めにふさわしい実を結ぶとは、それにふさわしい行動を伴う。即ち、神様を第一として、主の命ぜられることに聞き従うこと。

・私自身の回心の拙い体験を短く振り返ってみたい。学生の頃、正義感が強かったが、正義というものがあてにならない。正義は人を裁く、人を傷つける、それが、人と背比べ(嫉妬)することにつながり、自分の特性、アイデンティティを失う。Depressionに陥る。自分の弱さを徹底的に思い知らされて、悔い改め、キリストを受け入れた。その後、社会人になっても、多忙な中、神様よりこの世のものが優先してしまうが、その都度、神様の元に立ち帰ることができた。神に立ち帰るにはどうすればいいのかについては、最後もう一度触れる。

  • なぜ、神の子イエスは洗礼者ヨハネから洗礼を受けたのか?

〇マタイ3章11~15 節「11わたしのあとから来る人はわたしよりも力のあるかたで、わたしはそのくつをぬがせてあげる値うちもない。このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。・・・13そのときイエスは、ガリラヤを出てヨルダン川に現れ、ヨハネのところにきて、バプテスマを受けようとされた。」

・神の子イエスがわざわざ洗礼者ヨハネから洗礼を受けた理由は、何なのか? 二つの理由があると考えられる。一つは、旧約から新約への橋渡し、律法の完成のためである。キリストは、律法の廃棄のためでなく、完成のために来られたこと。マタイ5章「17わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである」

律法は、罪の中に生まれてきた私たち人間の養育係(ガラテヤ4章24節)。内村鑑三は、これに関し、「近代人は、バプテスマのヨハネを嫌い、彼を避け、彼によらずして、直ちにイエスに至らんと欲して、その目的を達しえない、先ず、正義の小学に学ばずして福音の大学に入ることはできない。」({一日一生}(7月16日)と語った。

・預言者がイスラエルの民に求めた旧約の「義の律法」が、キリストに於いて「愛の律法」へと質的に転換した。より次元の高い律法に変化したという意味では「昇華」といった言葉の方がいいのかも知れない。ひとりの律法学者から、イエスに対し、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのか尋ねると、キリストはこう言われた、(マタイ22章37~40節)「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。 『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。」。第一の戒めは申命記に、第2の戒めはレビ記に記されている。十字架は、神の義と神の愛が縦横にクロスすると共に神の愛と隣人愛がクロスすることを意味していると思われる。

・キリストがヨハネから洗礼を受けられたもう一つのもう一つ理由は、神の子としての究極の謙遜を世に示すためであった。即ち、神の義を貫徹しつつ、人類を罪から救い出すため、キリストが人の姿を取り、十字架で私たちの身代わりとなってとりなしをされた。パウロは、そのようなキリストの姿を次のように表現している。ピリピ書3章「6キリストは、神のかたちであられたが、・・・おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、 8おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。」

4.父と子と聖霊の三位一体-神の子、王としてのイエスの宣言

〇マタイ3章「16イエスはバプテスマを受けるとすぐ、水から上がられた。すると、見よ、天が開け、神の御霊がはとのように自分の上に下ってくるのを、ごらんになった。 17また天から声があって言った、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。

・この箇所は、父と子と聖霊という「三位一体」が聖書に登場する初めて場面でもあり、三位一体が示される数少ない箇所として注目sれる。

・「私の愛する子」という天からの声は、どういう意味を持ったのか? 地上に人として遣わされたイエスは、これから十字架の受難を受けることになる、この世の敗北に見えるかもしれない。しかし、十字架の死の後、復活し、天に引き上げられて、「神の国の王」となられるという「勝利宣言」がここになされたとも解釈できる。その証拠に、詩編2篇7~8節に次のように記されている。「7主はわたしに言われた、「おまえはわたしの子だ。きょう、わたしはおまえを生んだ。8わたしに求めよ、わたしはもろもろの国を嗣業としておまえに与え、地のはてまでもおまえの所有として与える。」

5.神様の元に立ち帰るには?-聖霊の働きに身を委ねること

・本日のメッセージのテーマ、「悔い改めよ」、天の父なる神様の元に立ち帰るにはどうすればいいか? 神の子が神の霊を受けられたように、私たちも、聖霊の働きに委ねるこちに尽きる

〇ローマ人への手紙8章「14すべて神の御霊に導かれている者は、・・・、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。・・26御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。

・聖霊に働きは、特別な人に、特別なときに与えられるものではない。私たちが弱い時に、信仰も弱く、どう祈ったら分からないときでも、神様に対し、とりなしの祈りをしていてくださる。毎日の仕事が行き詰った時にも、病気や疲労で倒れたときにも、常にそばに居て、助けてくださる方(パラクレートス)である。

・わが身を顧みて、いかにこの世の価値感や欲望に捕らわれ、神様から離れることが多いことか。サタンは、偶像崇拝を通じて、私たちを誘惑する。神様の元に立ち返るには、自分の弱さを認めて、十リストの愛に感謝し、聖霊の働きに身を委ねること。私自身、仕事でつらかった時に、日曜礼拝メッセージで励まされたのが次の聖句。第2コリント12章19~20節「19わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる。」。(ローマ人への手紙8章35節(「私の愛する子」と呼び掛けてくださる)神様の愛は、何物も引き離すことはできない)。

・最後に、愛唱聖句を読んで終わります。1テサロニケ5章16~19節「16いつも喜んでいなさい。 17絶えず祈りなさい。 18すべての事について、感謝しなさい。・・・ 19御霊を消してはいけない。」 いつも喜び、感謝、祈りつつ、聖霊の働きに委ねていこうではありませんか。この後歌う、「良き力に囲まれて」は、ドイツの牧師ボンフェファーがナチスの強制収容所で死を迎える直前に婚約者にあてて書いた詩ですが、この歌の中に、聖霊の守りと導きを感じます。      (祈り)       以上