レビ記8:1-5(8:1-10:20)レビ記3 『それは神から来たものか?』 けんたろ 2025/09/14
レビ記8:1-5(8:1-10:20)
8:1 【主】はモーセにこう告げられた。
8:2 「アロンと、彼とともにいるその子らを連れ、装束、注ぎの油、罪のきよめのささげ物の雄牛、二匹の雄羊、種なしパンのかごを取り、
8:3 全会衆を会見の天幕の入り口に集めよ。」
8:4 モーセは【主】が命じられたとおりにした。会衆は会見の天幕の入り口に集まった。
8:5 モーセは会衆に言った。「これは、【主】が行うように命じられたことである。」
今日の箇所は、アロンとその子供たちを祭司として任命するところから始まります。
私たち全てのクリスチャンにも祭司としての一面がありますから、厳粛に執り行われた祭司の任命には、身が引き締まる部分もありますね。
今回は、8~10章を通して、祭司としての役割として大切なことについて学んでいきたいと思います。
① 祭司とは?
まずは「祭司とは何か」ということについておさらいしておきましょう。
祭司とは何でしょう?
それは、神さまと人との間に立って働きをする人たちのことです。
この時代のイスラエルにあっては、儀式や祭典を行うことを通して、民に神さまのことを伝えるという役割でもありました。
儀式や祭典はイエスさまが地上に来たことによって完成してくださったので、私たちはその使命をもう負っていませんが、人々に伝えるという役割は担っています。
伝道というのもその一環ですね。
でもそれだけではありません。
神さまを知らない人々に仕え、愛することを通して神さまの愛を伝えるということも私たちが祭司として担っている大きな役割です。
私たちは教会というコミュニティを通してそれを伝えることができますし、個人として人々と関わる中で愛を伝えることもあります。
どちらも重要なことなので、自分に欠けている部分があると思ったら、そのことを意識してみてくださいね。
② 命じられたとおり
さて、このあたりの箇所を読んでいると、祭司として最も重要なことは何なのかということに気づかされます。
それは、同じ言葉が繰り返し使われているからですね。
この言葉は今日読んだ聖書箇所にもありましたし、レビ記だけではなく出エジプトの中でもたくさん登場した言葉です。
それは、「主が命じられた通りにする」ということです。
今回カバーしている8~10章の間には、この言葉がしつこいほど繰り返されています。
それほど、「主が命じられた通りにする」ことが大切だということですね。
そうして命じられた通りに働きをすると、そこには驚くべきことが起こります。
レビ記 9:23 モーセとアロンは会見の天幕に入り、そこから出て来て民を祝福した。すると【主】の栄光が民全体に現れ、
9:24 火が【主】の前から出て来て、祭壇の上の全焼のささげ物と脂肪を焼き尽くした。民はみな、これを見て喜び叫び、ひれ伏した。
主が命じられた通りに行うとき、そこには神の栄光が表されます。
ここではそれが、火としていけにえの上に降り注ぎ、ささげものを焼き尽くしました。
民はそれを見て、喜び叫んでひれ伏したのです。
③ 異なる火
ところが、ここで大変な事件が起こってしまいます。
アロンの子、ナダブとアビフが、祭司としての働きの中で死んでしまったのです。
レビ記 10:1 さて、アロンの子ナダブとアビフはそれぞれ自分の火皿を取り、中に火を入れ、上に香を盛って、主が彼らに命じたものではない異なる火を【主】の前に献げた。
10:2 すると火が【主】の前から出て来て、彼らを焼き尽くした。それで彼らは【主】の前で死んだ。
10:3 モーセはアロンに言った。「【主】がお告げになったことはこうだ。『わたしに近くある者たちによって、わたしは自分が聖であることを示し、民全体に向けてわたしは自分の栄光を現す。』」アロンは黙っていた。
私たちも祭司であるということを考えると、この事件はドキッとさせられますね。
祭司としての働きの中で死んでしまうことがあるんだ。
しかもそれは、神さまの火によって焼き尽くされてしまうようなことなんだということです。
これは何を表しているのでしょうか?
ここで気になるのは、アロンの子たちが用いた「異なる火」とは何なのかということかもしれません。
それによって彼らは命を落とすことになったのですから、かなり重要なことのはずですが、残念なことにここでは詳細の説明がありません。
でも、ここまでの話の流れで考えてみると、ある程度推測できるのではないかと思います。
これまでは、「主が命じられた通り」ということが大切であり、それによって主の前から出た火は主の栄光を表しました。
しかし、「異なる火」をささげたとき、同じ主の前から出た火は彼らを裁くものとなり、燃やし尽くしてしまったのです。
ここに出てくる火が表しているのは、前回もお話ししたようにきよめの火であり、主の裁きの火です。
きよめや裁きというものは、主からのものでなければなりません。
そこに別のものをもたらしたとき、その火は私たちを焼き尽くすものとなってしまうのです。
私たちが正しいものを判断するとき、それが神さまからのものであるかどうかというところに気を付けてください。
簡単に言えば、それが聖書の価値観と一致しているかどうかということです。
神さまとは違う価値観を持ち込むなら、それは異なる火となります。
でもこれは、私たちがやってしまいがちなことです。
私たちは、自分の価値観や文化に根差した道徳、政治や哲学的思想を信仰の中に持ち込んではいないでしょうか?
その先にあるのは、自分や別のもの、思想や哲学、常識や道徳を神にしてしまう偶像崇拝です。
それによって、私たちが物理的に焼き殺されるということはないかもしれませんが、その人やコミュニティは霊的に死んだものとなってしまいます。
そうならないために必要なのは、私たちがいつも「神さまの御心」を第一にするように求めることだと思います。
とは言え、私たちは勘違いが多いですから、不用意に断定しないことをお勧めします。
そして、きよめと裁きは常に神さまのものであり、私たちが自分で決めるものではないことを覚えておきたいものです。