レビ記11:1-8(11:1-12:8) レビ記4 『きよいものとけがれたもの』2025/09/20 けんたろ

レビ記11:1-8(11:1-12:8)
11:1 【主】はモーセとアロンに告げて、こう彼らに言われた。
11:2 「イスラエルの子らに告げよ。次のものは、地上のすべての動物のうちで、あなたがたが食べてもよい生き物である。
11:3 動物のうち、すべてひづめが分かれ、完全にひづめが割れているもので、反芻するもの。それは食べてもよい。
11:4 ただし、反芻するもの、あるいは、ひづめが分かれているものの中でも、次のものは食べてはならない。らくだ。これは反芻はするが、ひづめが分かれていないので、あなたがたには汚れたものである。
11:5 岩だぬき。これも反芻はするが、ひづめが分かれていないので、あなたがたには汚れたものである。
11:6 野うさぎ。これも反芻はするが、ひづめが分かれていないので、あなたがたには汚れたものである。
11:7 豚。これはひづめが分かれていて、完全に割れてはいるが、反芻しないので、あなたがたには汚れたものである。
11:8 あなたがたは、それらの肉を食べてはならない。また、それらの死骸に触れてもいけない。それらは、あなたがたには汚れたものである。

さて、今日はレビ記の中でもなかなか難しい部分ですね。
きよいものとけがれたものに関する規定です。
特に11章では主に食べ物に関して記されています。

この辺りは文字通りにだけ受け取ると、単なる宗教的な規則になりますね。
ユダヤ教だけでなく、イスラム教、ヒンズー教、仏教にはそれぞれ食べ物に関する戒律があるのでそのように受け止めてしまいがちですが、新約聖書とのつながりの中で理解していくと、これを通して神さまが伝えようとしていた本質的なことが分かってきます。
今回は、聖書の全体像の中で神さまが伝えようとしてことについて考えてみましょう。

① 分ける

冒頭でお話しした通り、この辺りの記述の目的は、「きよいもの」と「けがれたもの」を分けることです。
この「分ける」ということ自体が、聖書の中では大切な価値観で、かなり意識的に行われています。
神さまは、光と闇を分けました、天と地を分け、陸地と水を分けました。
聖書は「分ける」ということを通して秩序が創造されていることが、全体を通して表されているのです。
日本人はいろいろなものを融合して、境目をあいまいにしようとする傾向がありますから、ある意味では真逆の価値観と言えるかもしれませんね。

② きよいものとけがれたもの

次に、きよいものとけがれたものについて考えていきましょう。
食べ物のことにだけ目を奪われると、それが健康に良いものかどうかとか、衛生上の問題とか余計な価値観が入ってきてしまいます。
実際、神学校でもそのような話を聞きました。
でも、聖書の目的は宗教的なルールを伝えることではありません。
罪人となってしまった私たちの救いについて書かれているのが聖書の目的ですね。
私たちはそのような観点で、この箇所も理解していく必要があります。

ここで言う、「きよいもの」とは、神さまの属するものです。
時間がないので一気に結論を話してしまいますが、ここに表されているのはイエス様です。
それぞれの特徴が何を意味しているかは説明しませんが、興味があったらご自身で調べてみてください。
場合によっては原語であるヘブル語から学ぶ必要があるかもしれませんが、興味深い部分ではあります。

一方で、「けがれたもの」とは神さまに属さないものです。
ここで規定されているものはあくまでも象徴なので、必ずしも食べ物が罪と直結するわけではありませんが、罪やけがれの特徴を理解する助けになります。
例えば、罪の結果としてもたらされたものである「死」はけがれだということ。
けがれはきよめられなければならないものだということ。
そして、けがれは伝染するものだということです。

レビ記 11:24 次のことによっても、あなたがたは身を汚すことになる。すなわち、それらのものの死骸に触れる者はだれでも夕方まで汚れる。
11:25 また、それらの死骸を運ぶ者はみな、自分の衣服を洗わなければならない。その人は夕方まで汚れる。

聖書の中では「食べる」という行為は、それを取り込んで一体となることを意味していますから、イスラエルの民はけがれを取り込まないように生きるように訓練されたのです。

また、12章では月経や出産によって女性はけがれることが記されています。
私たちの感覚では、命を生み出すことは神聖なことのように感じますが、聖書の中ではけがれたものとされます。
そこには命の象徴である血が流れるからです。
これも象徴ですから、それが悪いものかどうかとは全く関係のない話です。

③ きよいものとされた

さて、今回の結論について述べていきましょう。
ここから受け取ることができる第一のことは、「きよいものとけがれたものとは分けられている」ということです。
このけがれは人の罪によって生まれたものではありますが、「この世界は神様が創造したのだからすべてよいものだ」ということはなく、きよいものとけがれたものがあり、私たちはけがれたものを避けて、きよいものを選ぶ必要があるということです。

第二に、私たちは完全にきよい人はいないということです。
完全にきよい生き方をすることができる人もいません。
私たちは、みんなけがれた存在なのです。
これは律法を知るうえで大切な理解でもあります。
律法をすべて行うことによって正しい人になることは誰にもできません。
完全にきよい人は存在せず、私たちの中にはけがれがあるということを知ることも、律法に与えられた大きな目的の一つなのです。

第三に、けがれものはきよめられるということです。
旧約の時代には、いけにえをささげることによってきよめられました。
イエスさまがそれを完成し、今はいけにえも必要としていません。
それを信じることによって、きよめを受け取ればいいのです。
そして私たちは、イエスさまによってきよめられ、罪赦され、義とされたという信仰によって義なるものとなるのです。

しかし、全ての前提として、私たちは汚れた存在であり、罪人であったというところから始まるのでなければ、きよめられたことの喜びは大きくなりません。
現代のキリスト教の中に蔓延し始めている、「あなたの生き方は罪ではないよ」「そのままのあなたでいいんだよ」というメッセージの問題はそこにあります。
私たちは罪人であり、けがれており、問題がある。
だから救い主が必要であり、イエスさまはそのために命をかけてくださった。
そこには、大きな喜びが伴うのです。

みなさんは、きよめられた喜びをどれくらい実感できているでしょうか?
その喜びが大きくなりますように。
その喜びは、私たちを内側から変える力さえ持つものなのですから。