レビ記13:1-8(13:1-15:33)レビ記5 『けがれたものの対処方法』 2025/09/27 けんたろ
レビ記13:1-8(13:1-15:33)
13:1 【主】はモーセとアロンにこう告げられた。
13:2 「ある人のからだの皮膚に腫れもの、あるいはかさぶた、あるいは斑点ができて、からだの皮膚にツァラアトに冒された患部が現れたときは、彼を祭司アロンのところか、アロンの子らで祭司の一人のところに連れて来なければならない。
13:3 祭司は、そのからだの皮膚の患部を調べる。その患部の毛が白く変わり、患部がそのからだの皮膚よりも深いところに見えているなら、それはツァラアトに冒された患部である。祭司はそれを調べ、彼を汚れていると宣言する。
13:4 もしそのからだの皮膚の斑点が白く、皮膚よりも深くは見えず、そこの毛も白く変わっていなければ、祭司はその患者を七日間隔離する。
13:5 祭司は七日目に彼を調べる。もしその患部が祭司の目にはそのままに見えて、その患部が皮膚に広がっていなければ、祭司は彼をさらに七日間隔離する。
13:6 祭司は七日目に再び彼を調べる。もし患部が薄れ、その患部が皮膚に広がっていなければ、祭司は彼をきよいと宣言する。それは、かさぶたである。彼は自分の衣服を洗う。こうして彼はきよくなる。
13:7 しかし、もしも彼が祭司にその身を見せてきよいと宣言された後で、かさぶたが皮膚に広がってくるようなことがあるなら、再び祭司にその身を見せる。
13:8 祭司が調べて、かさぶたが皮膚に広がっているなら、祭司は彼を汚れていると宣言する。それはツァラアトである。
今日の聖書箇所は、前回に引き続きけがれときよめに関しての話題です。
ここでいうけがれやきよめというのは霊的な意味合いでの話で合って、衛生的にどうかとか物理的な話ではありません。
そこには象徴的な意味合いも含まれています。
そのことを念頭に置いて、今日のところを見てみましょう。
大まかに言うと、今回話題として挙がっているのはツァラアト、漏出物、精液、経血によるけがれときよめの話です。
これは、私たちにとってどのような意味を持っているのでしょう?
① ツァラアト
まずはツァラアトについて考えてみましょう。
ツァラアトという言葉はあまり聞きなれない言葉ですよね。
新改訳2017版にだけ見られる表現ですが、新改訳の第三版までは「らい病」とされていました。
英語でもらい病を表すleprosyという言葉で訳されていることが多いように思います。
しかし、聖書でのこの記述によって、実際にらい病を患っている方たちが差別を受けたということで、2017版からは原文の発音をカタカナにしたツァラアトという言葉になりました。
恐らくは同じような理由から、「重い皮膚病」という表現がされている翻訳もあります。
では、実際ツァラアトとは何なのでしょう?
患部が白くなり、皮膚よりも奥から色が変わるものはツァラアトであるとされていますね。
また、ツァラアトは衣服や建物の中にも発生するものだという記述があります。
そう考えてみると、これは実際にあるらい病(ハンセン氏病)とはかなり違う物であるようです。
また、有機物だけでなく衣服や建物の壁のように無機物にも起こることを考えると、皮膚病のような病気であるというよりは、カビのように外側から影響を与えるもののようです。
これは比較的深刻な病や問題とされ、ツァラアトに冒された人は周りの人たちに影響を与えないように隔離されました。
レビ 13:45 患部があるツァラアトに冒された者は自分の衣服を引き裂き、髪の毛を乱し、口ひげをおおって、『汚れている、汚れている』と叫ぶ。
聖書の中に記されている規定では癒された場合についても記されていますが、実際には直ることは絶望的だったようで、神さまの奇跡による場合にしかツァラアトからの癒しは記されていません。
列王記に登場するアラムのナアマン将軍が有名なケースですね。
ツァラアトが何を表すものであれ、それは神様の介入を必要とするものだったのです。
② 性器からの漏出
15章に記されているのは、男性の性器からの出る体液や、女性の生理による出血などの話です。
これらもまた、霊的にけがれたものとなることが記されています。
それらを漏出した人たちは、一定期間けがれたものになったり、あるいは水浴びをしなければならないとされています。
逆に言えば、その程度できよめられるものがほとんどのケースです。
例外となるのは、それが病気として長期間続く場合で、その人はその症状がある限りずっとけがれたものとされてしまいます。
新約聖書の中でも、12年間出血が止まらなかった長血の女が登場します。
彼女は12年の間誰かに触れて相手をけがしてしまうことのないように、孤独に過ごしてきたことになります。
③ けがれという忌むべきもの
こうして、2週間かけてけがれときよめということについて考えてきました。
聖書を読む中で分かってくるのは、けがれの程度には確かに個人差があるということ。
でも、けがれたことのない人なんて一人もいないのだということです。
誰もがけがれを持っている。
でも、そのけがれには個人差がある。
私たちの問題は、その個人差の部分に目を留めて、自分や他人が、他の人よりもけがれているかきよいかということで比較し、けがれている人たちを貶めてしまうことです。
確かに、けがれというのはそれぞれに対処してきよめられる必要があるものでした。
「みんなけがれているんだから、そのままでいいんだよ」という話でないことは確かです。
しかし、自分の中にもけがれがあったことを忘れ、より大きなけがれを持っている人を下に観たり虐げたりすることは、神さまが求めたことではありません。
私たちは、すべてきよめられなければならないことを受け入れて、神さまからのきよめを求める必要があるのです。
イエスさまが地上に来た時、より大きなけがれを持った人たちに積極的に関わり、彼らをきよめ、罪の赦しをもたらしました。
そうしてイエスさまは、全ての人がイエスさまによってきよめられることを世に示したのです。
私たちクリスチャンは、みんなそのきよめを受けていました。
そんな私たちは、自分たちもけがれを持っていたことを否定するのではなく、今けがれの中にあったり、まだきよめを受け入れていない人たちとも積極的に関われればいいですね。
イエスさまがもたらしてくださるきよめを、その方たちに届けることができたらどれほど素晴らしいでしょう?
私たちが生きる世界は、けがれていることがむしろ当たり前の世界ですから、その中で彼らと関わることは言うほど簡単なことではありません。
けがれが私たちに侵食してきてしまうように感じることもあるでしょう。
でも私たちは、イエスさまのきよめがそれにも増したきよさによって、全てのも物をきよめることができることを信頼しましょう。
そして、ひとりでも多くの人たちがイエスさまのきよめを受け取ることができるように祈っていこうではありませんか。