レビ記16:1-5(16:1-34) レビ記6『罪の贖いの日』2025/10/04 けんたろ
レビ記16:1-5(16:1-34)
16:1 アロンの二人の息子の死後、すなわち、彼らが【主】の前に近づいて死んだ後、【主】はモーセに告げられた。
16:2 【主】はモーセに言われた。「あなたの兄アロンに告げよ。垂れ幕の内側の聖所、すなわち箱の上の『宥めの蓋』の前に、時をわきまえずに入ることがないようにせよ。死ぬことのないようにするためである。『宥めの蓋』の上で、わたしは雲の中に現れるからである。
16:3 アロンは次のようにして聖所に入る。罪のきよめのささげ物として若い雄牛、また全焼のささげ物として雄羊を携え、
16:4 聖なる亜麻布の長服を着て、亜麻布のももひきを履き、亜麻布の飾り帯を締め、亜麻布のかぶり物をかぶる。これらが聖なる装束であり、彼はからだに水を浴びて、それらを着ける。
16:5 彼はまた、イスラエルの会衆から、雄やぎ二匹を罪のきよめのささげ物として、雄羊一匹を全焼のささげ物として取る。
今日の聖書箇所は、大祭司が至聖所に入る特別な日のことについての話です。
この日は特別な儀式が行われ、ユダヤ人たちの間では今でもヨム・キプル(贖罪の日)と呼ばれ、最大の祝日として守られています。
イスラエルには安息日を守るという戒めがあることを多くの方はご存じだと思いますが、この日は全てが閉鎖され、祈りのために費やされています。
今年のヨム・キプルがいつだったかと言うと、実はつい3日前の10月2日でした。
時差もありますしユダヤの一日は日没から始まりますから、日本時間で言うと10月3日に当たります。
今年は、過ぎ越しの祭り(ペサハ)から始まってイスラエルのお祭りに注目してお話を進めてきていますが、この話をするタイミングがあまりにも完璧すぎて、神さまの導きを感じますね。
さて、ざっくりと解説していきましょう。
① 主のためのやぎとアザゼルのためのやぎ
1年に一度行われるこの日には、2匹の雄ヤギが用意されます。
一匹は主のために分けられ、ほふられます。
その血は契約の箱の上のなだめの蓋にかけられ、罪の赦しのためのいけにえとなります。
もう一匹は、アザゼルのためとして分けられ、生かされたままとなります。
このアザゼルが何を意味しているのかは、実は誰にもわかりません。
堕天使や悪魔として理解されることもありますが、ヤギを追いやる儀式そのものを意味するという説もあります。
アロンは、アザゼルのために分けられた方のやぎに両手を置き、イスラエルの人々の咎と背き、そして罪をすべて告白します。
これは、イスラエルの人々の罪をこのやぎに負わせることを象徴する儀式です。
こうしうてすべてを負ったヤギはこの地から追いやられ、二度と戻ってくることはありません。
② 二匹のヤギが意味するもの
さて、主のためのヤギと、アザゼルのためのヤギは何を意味しているでしょう?
これまで、レビ記に出てくることのほとんどはイエスさまを表しているという話をしてきましたが、これももちろん同じです。
二匹のヤギは、それぞれイエスさまを表しているのです。
もちろん、イエスさまが二人いるということではありません。
これは、イエスさまの十字架による罪の贖いの二つの側面を表しているのです。
一方の「主のためのヤギ」は、これまでのいけにえの表現と同じように、罪の赦しとなだめを意味しています。
ここで捧げられたヤギは、イスラエルの民に代わってその罪を負い、人々の代わりに命を犠牲にしたのです。
それは、イエスさまが十字架の上で完成されたことでした。
イエスさまが十字架の上で発した最後の言葉は「テテレスタイ」。
「借金完済」を意味する金融用語です。
もう一方の、「アザゼルのためのヤギ」もまた、イエスさまによる罪の贖いの結果を表現しています。
これは、私たちの罪をはるか遠くのものとし、神が忘れてくださったことを意味しているのです。
イエスさまの十字架によって私たちの罪は赦され、その罪が思い出されることはもうありません。
聖書には繰り返しこの約束が表現されています。
イザヤ43:25 わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたの背きの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。
エレミヤ 31:34 彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に、『【主】を知れ』と言って教えることはない。彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るようになるからだ──【主】のことば──。わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。」
そこで表現されているのは、完全な罪の赦しなのです。
③ 罪を贖われたものとして
そのようなわけで、今もユダヤ人たちに祝われているヨム・キプル(贖罪の日)はイエスさまによって完成したことと、そこで行われていた儀式が意味することを通して、イエスさまの十字架による罪の贖いが表されていることを学びました。
これらの儀式は、現代では恐らく行われておらず、祭りは形だけが残っています。
でも私たちは、改めてこのことを思い出し、私たちのためにイエスさまが犠牲となってくださったこと、そしてそこに与えられている赦しの大きさについて考えてみてはいかがでしょうか?
こうして罪が赦された私たちには、新たな特権が与えられています。
それは、大祭司が年に一度だけ入ることを許されていた至聖所に、いつでも入ることができるということです。
そこにはもう、いけにえも、長服も、亜麻布のももひきも必要としません。
私たちはイエスさまが着せられているからです。
ガラテヤ 3:27 キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです。
至聖所とは、神さまの臨在で満たされた場所、神さまの御前です。
私たちは罪人としてその場に入ることは許されず、不用意に入れば神さまの裁きを受けて即死をまぬがれませんが、罪が贖われた私たちは神様の御前に出て、神さまと共に過ごすことができるのです。
神さまの親しき交わり、喜びの中で共に過ごすことができます。
皆さんは、その喜びを味わっているでしょうか?
せっかく罪赦された者となったのに、その喜びを受け取らないのはあまりにもったいないことです。
どうか大胆に主の御もとに行き、深い交流を持ってください。
ともに食べ、ともに歌い、ともにたたえ合い、ともに語り合うことを主は求めておられます。
皆さんにとって、そのような交わりがむしろ日常のものとなりますように。
そしてその喜びの中で、毎日を過ごせますように心から祈ります。