レビ記23:34-36, 39-43(23:34-43) レビ7『仮庵の祭り』2025/10/12 けんたろ

レビ記23:34-36, 39-43
23:34 「イスラエルの子らに告げよ。この第七の月の十五日には、七日間にわたる【主】の仮庵の祭りが始まる。
23:35 最初の日には、聖なる会合を開く。あなたがたは、いかなる労働もしてはならない。
23:36 七日間、あなたがたは食物のささげ物を【主】に献げなければならない。八日目も、あなたがたは聖なる会合を開かなければならない。あなたがたは食物のささげ物を【主】に献げる。これはきよめの集会であり、いかなる労働もしてはならない。

23:39 特に、あなたがたがその土地の収穫をし終える第七の月の十五日には、七日間にわたる【主】の祭りを祝わなければならない。最初の日は全き休みの日であり、八日目も全き休みの日である。
23:40 最初の日に、あなたがたは自分たちのために、美しい木の実、なつめ椰子の葉と茂った木の大枝、また川辺の柳を取り、七日間、あなたがたの神、【主】の前で喜び楽しむ。
23:41 年に七日間、【主】の祭りとしてこれを祝う。これはあなたがたが代々守るべき永遠の掟であり、第七の月に祝わなければならない。
23:42 あなたがたは七日間、仮庵に住まなければならない。イスラエルで生まれた者はみな仮庵に住まなければならない。
23:43 これは、あなたがたの後の世代が、わたしがエジプトの地からイスラエルの子らを導き出したとき、彼らを仮庵に住まわせたことを知るためである。わたしはあなたがたの神、【主】である。」

今年はユダヤのお祭り(三大祝祭)を取り上げますよという話をしていました。
予告通り、今回は仮庵の祭りです。
実は、ユダヤの秋の祭りということで、2週間前くらいから始まっている流れで、ラッパの祭り(ロシュ・ハシャナ)が2025年は9月23日、贖罪の祭り(ヨム・キプル)が10月2日、そして仮庵の祭り(スコット)が10月6日からの8日間となっています。
聖書を読んでいると「第七の月の…」と書かれていたりするので7月じゃないのと思うかもしれませんが、ユダヤの暦と西暦とは違いますから、日にちは毎年変わるわけです。

はからずも、前回はちょうどタイミングよく贖罪の祭りの箇所だったわけですが、今回は少し聖書箇所を飛んで、仮庵の祭りについてのお話をします。
秋の祭りの最後をかざる仮庵の祭りとは、どんな祭りなのでしょうか?

① 仮庵とは

そもそも、ここに出てくる「仮庵」とは何なのでしょう?
この言葉自体が耳慣れない言葉なのではないかと思います。
漢字で見ると少し分かりやすくなりますが、「仮」の「いおり」と書いて仮庵と読みます。
庵というのは、小屋のことですね。
日本では茶室などに「〇〇庵」と名付けられていたりします。

すると、仮庵というのは仮の小屋、つまりテントのようなものを意味しているわけです。
イスラエルが出エジプトしてから40年間荒野をさ迷う間、彼らは定住することなく仮の小屋に住みました。
自分たちの土地もなく、田畑もない不自由な生活でしたが、神さまはマナを降らせ、水を与え、時にはウズラを食べさせて彼らはその40年間を過ごしました。
その厳しくも、神さまの恵みに生かされた喜びを祝い、覚えるために守っていたのが仮庵の祭りなのです。

② どんな祭りか

今日の聖書箇所をまとめるとこのようなことが書かれています。

1. 聖なる集会を開く(35節)
2. 7日の間、食物のささげ物をささげる(36節)
3. 初日に、美しい木の実、なつめ椰子の葉と茂った木の大枝、また川辺の柳を取り、七日間、【主】の前で喜び楽しむ(40節)
4. 7日間、仮庵に住む(42節)
5. 8日目も聖なる集会を開き、全焼のいけにえとして食物をささげる(36節)
6. 初日と8日目は全き休み(安息)の日であり、労働をしてはならない(39節)

このことを通して、イスラエルは今や定住の地を得て収穫があり、仮庵にはもう住んでいないことを感謝しつつ、仮庵で暮らしていた時代を思い出しました。
これからカナンの地に入って行こうとするイスラエルに、モーセはこのような言葉を残しています。

申命記 16:13 あなたの打ち場とあなたの踏み場から取り入れが済んだとき、七日間、仮庵の祭りをしなければならない。
16:14 この祭りのときには、あなたも、あなたの息子、娘、男女の奴隷、あなたの町囲みの中にいるレビ人、寄留者、孤児、やもめもともに喜び楽しみなさい。

定住するようになったイスラエルは、秋の収穫を祝う祭りとして、仮庵で収穫物を食べながら喜び楽しむ祭りとなりました。
喜び楽しむことは大切なことなのですね。

③ 仮庵の祭りが意味すること

さて、仮庵の祭りは、私たちにとっては何を意味しているのでしょうか?

第一に、他の祭りがそうであったように、この祭りもイエスさまを表すものとだと考えられます。
イエスさまはこの地上に来られる間、私たちと同じ不完全な肉体という仮庵に住まわれました。
そのことを祝う祭りとしての意味を見出すことができます。
私たちキリスト教はイエスさまの誕生を12月25日に祝っていますが、実際には何の根拠もないことが知られています。
一方で、イエスさまの誕生はこの仮庵の祭りの時だったのではないかという説もあります。
聖書の中にはこれを裏付ける証拠もありませんが、少なくともこの時期にクリスマスを祝う方がよほど聖書的に意味のあることだったかもしれませんね。

第二のこととして、イエスさまが仮庵の祭りの時にしたことを見てみましょう。
イエスさまがいた時代には、伝統としてこの仮庵の祭りの日に水を汲んで神殿に奉納するという儀式が行われていました。
それを見ていたイエスさまは、このようなことを言っています。

ヨハネ 7:37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」

祭りの終わりの大いなる日というのは、仮庵の祭りの8日目のことです。
人々はシロアムの池から水を汲んで神殿に奉納し、恵みの雨を神さまに求めていました。
それは正に、不完全な体で生きる私たちが、飲んでもまた渇いてしまう水を求めて姿です。
しかしイエスさまは、「私のもとに来なさい。そうすれば生ける水の川が流れ出るようになる」と約束しました。

生ける水の川とは、聖霊のことです。
イエスさまのもとに行くなら、聖霊という新しい命が与えられ、私たちはもう渇くことのない水に満たされます。
聖霊として主が私たちの内に住んでくださる今、私たちはもう仮庵ではなく主の宮となるのです。
そしてこれは、第三のことに繋がります。

第三に、これは私たち人間もまた、今は肉体という仮の住まいに生きる存在だということを表しています。
地上にいる間は不自由で、苦難もたくさんありますが、それでもイスラエルが荒野をさ迷っていた時のように、主の恵みと憐みの中で生かされています。
そしてそれは、やがて私たちが約束の地である天に挙げられ、平安をもって住まうことができることの約束でもあるのです。

私たちは、生きている間つい今ある仮庵としての私たちの人生だけを見てしまいがちです。
でも、イエスさまは私たちをこの不自由な体から解放し、永遠の時を神さまと共に過ごすように招いておられるのです。
この仮庵の祭りの時、その目的のために主ご自身がこの地上に来てくださり、私たちに道を示してくださったことを覚えて過ごしませんか?