レビ記17:10-12(レビ記17:1-16) レビ記8 『血はいのち』 2025/10/26 けんたろ
レビ記17:10-12(レビ記17:1-16)
17:10 イスラエルの家の者、あるいは彼らの間に寄留している者のだれであっても、どんな血でも食べるなら、わたしはその血を食べた者に敵対してわたしの顔を向け、その人をその民の間から断ち切る。
17:11 実に、肉のいのちは血の中にある。わたしは、祭壇の上であなたがたのたましいのために宥めを行うよう、これをあなたがたに与えた。いのちとして宥めを行うのは血である。
17:12 それゆえ、わたしはイスラエルの子らに言う。あなたがたはだれも血を食べてはならない。あなたがたの間に寄留している者も血を食べてはならない。
前回はちょっと先に進んでしまいましたが、今回は一旦戻って17章からお話をします。
この箇所は、エホバの証人さんたちによって極端な解釈がされてきました。
先ほど読んだように、これは「血を食べてはならない」という戒めなのですが、エホバの証人では輸血もこれに当たるとして禁止してきました。
それによって、助かる命を助けることができないという事件がいくつも起こってしまったわけです。
それが間違った解釈なのだとしたら、この箇所は私たちに何を伝えようとしているのでしょう。
イスラエルの人々は、どうして血を食べてはならなかったのでしょうか?
① 血はいのちの源
血を食べてはならない理由に関して、聖書にはこのように記されています。
17:11 実に、肉のいのちは血の中にある。わたしは、祭壇の上であなたがたのたましいのために宥めを行うよう、これをあなたがたに与えた。いのちとして宥めを行うのは血である。
17:14 すべての肉のいのちは、その血がいのちそのものである。それゆえ、わたしはイスラエルの子らに言ったのである。『あなたがたは、いかなる肉の血も食べてはならない。すべての肉のいのちは、その血そのものであるからだ。それを食べる者はだれでも断ち切られる』と。
血を食べてはならない第一の理由は、血がいのちの源だからです。
これはもちろん生物学的な話ではありません。
聖書では、血をいのちの源として扱いますよということなのです。
第二に、いのちのなだめとなるのは血だからです。
新改訳第三版では「いのちとして贖いをするのは血である」となっています。
つまり、血によっていのちが贖われるということですね。
だから動物の血がいけにえとして捧げられ、贖いの蓋の上に注がれたわけです。
② イエスさまの血
この出来事に関して、新約聖書ではこのように解説しています。
ヘブル 9:19 モーセは、律法にしたがってすべての戒めを民全体に語った後、水と緋色の羊の毛とヒソプとともに、子牛と雄やぎの血を取って、契約の書自体にも民全体にも振りかけ、
9:20 「これは、神があなたがたに対して命じられた契約の血である」と言いました。
9:21 また彼は、幕屋と、礼拝に用いるすべての用具にも同様に血を振りかけました。
9:22 律法によれば、ほとんどすべてのものは血によってきよめられます。血を流すことがなければ、罪の赦しはありません。
9:23 ですから、天にあるものの写しは、これらのものによってきよめられる必要がありますが、天上にある本体そのものは、それ以上にすぐれたいけにえによって、きよめられる必要があります。
それ以上にすぐれたいけにえとは何でしょう?
そう、イエスさまですね。
ローマ 3:25 神はこの方を、信仰によって受けるべき、血による宥めのささげ物として公に示されました。ご自分の義を明らかにされるためです。神は忍耐をもって、これまで犯されてきた罪を見逃してこられたのです。
旧約の時代は象徴としていけにえの血を捧げましたが、イエスさまが十字架で血を流してくださり、よりすぐれた、いや完全ないけにえとして、罪の贖いを完成させてくださったのです。
③ 血を飲む儀式?
さて、血を食べてはならないイスラエルですが、それが覆されるような衝撃的なことをイエスさまは言いました。
血を口にするようにと命じられたのです。
マルコ 14:23 また、杯を取り、感謝の祈りをささげた後、彼らにお与えになった。彼らはみなその杯から飲んだ。
14:24 イエスは彼らに言われた。「これは、多くの人のために流される、わたしの契約の血です。
イスラエルの人々は、動物の血を口にしてはなりませんでした。
それは、彼らが取り込んで一体となるべきものではなかったからです。
これまでも話してきたように、口にするということはそれと一体になることも意味するのです。
動物の血は、お腹を満たすことはできても彼らに命を与えるものではありませんでした。
彼らが取り入れるべきは、彼らに命を与えるイエス・キリストの血なのです。
もちろん、本物の血を飲むわけではなく、それを象徴したぶどう酒です。
今日、私たちもこの後、礼拝の最後に聖餐のパンとぶどうジュースにあずかります。
そこに象徴されているのは、私たちがイエスさまの命ある肉と血を受けて、イエスさまと一体となるということです。
そして、同じ肉と血を受けた私たちは、互いに一つの体であり、一つの家族だということなのです。
イスラエルの人々から始まり、神さまが私たちに求めているのは、私たちがこれまでのように、命のない肉と血によって生きることではなく、新しい命を得た者として自覚を持って生きていくことです。
私たちは、そのような自覚を持って生きているでしょうか?
その意識を持って考えてみると、聖餐式は今までとは少し違ったものになるかもしれません。
私たちの内に、新しい主の命が満ち溢れますように。
