レビ記21:1-9(レビ記21:1-22:33) レビ記10 『祭司としての責任』 2025/11/08 けんたろ

レビ記21:1-9(レビ記21:1-22:33)
21:1 主はまたモーセに言われた、「アロンの子なる祭司たちに告げて言いなさい、『民のうちの死人のために、身を汚す者があってはならない。
21:2 ただし、近親の者、すなわち、父、母、むすこ、娘、兄弟のため、
21:3 また彼の近親で、まだ夫のない処女なる姉妹のためには、その身を汚してもよい。
21:4 しかし、夫にとついだ姉妹のためには、身を汚してはならない。
21:5 彼らは頭の頂をそってはならない。ひげの両端をそり落してはならない。また身に傷をつけてはならない。
21:6 彼らは神に対して聖でなければならない。また神の名を汚してはならない。彼らは主の火祭、すなわち、神の食物をささげる者であるから、聖でなければならない。
21:7 彼らは遊女や汚れた女をめとってはならない。また夫に出された女をめとってはならない。祭司は神に対して聖なる者だからである。
21:8 あなたは彼を聖としなければならない。彼はあなたの神の食物をささげる者だからである。彼はあなたにとって聖なる者でなければならない。あなたがたを聖とする主、すなわち、わたしは聖なる者だからである。
21:9 祭司の娘である者が、淫行をなして、その身を汚すならば、その父を汚すのであるから、彼女を火で焼かなければならない。

前回は18章から20章までの話を読み進めてきました。
イスラエルの人々が守るべき戒めに関して、より具体的に記されていて、大切なのはエジプトやカナンの文化、つまり世の中の価値観に飲み込まれるのではなく、神さまの価値観に沿って行きなさいということが記されていました。
具体的には、不倫や近親相姦、同性愛などの不品行を避け、子供をいけにえとして捧げるようなことはせず、両親を敬い、貧しい人たちや障碍を持った人たちには配慮して助けなさいということでした。
背いた場合には民から排除されたり、場合には殺されなければならないという厳しいものでしたが、罪はいけにえによって贖われるというのがレビ記の原則でもあります。
悔い改める限り、出来心でやってしまった罪は赦されますが、意識的に神さまに背き、従わないという意思を持つ人たちに対しては厳しく対応するということが示されていたわけです。
今日はその続きとなります。

① 祭司への戒め

さて、今回の箇所はわりと似た感じでスタートするのですが、わりと同じようなことが繰り返されています。
しかし、読み進めていくと、より厳しい内容になっているように感じられると思います。
意味が分からずに読んでいると、どうして同じことが繰り返されているのか、
それでいて、より厳しいことが書かれているのか不思議になってしまうかもしれません。
これは、「誰に向けて書かれていることか」注意して読んでいくと、分かってくる部分でもあります。
18~20章は「イスラエルの子らに言え」と言われているのに対して、21~22章は「アロンとその子らに告げよ」となっています。
何が違うのかというと、18~20章はイスラエルの民たちに向けて、21~22章は祭司たちに向けての言葉だということです。
結構見落としてしまいがちなのですが、これを踏まえてこの箇所を読むと、意図していることがどこにあるのかが見えてきます。

クリスチャンである私たちは、イスラエルの子らとして自覚することはもちろん、祭司でもあります。
どちらからも学ぶ必要がありますが、読み取り方に気を付ける必要がありますので、少しだけ一緒に見てみましょう。

② レビ記は差別的?

 21章の前半に関しては、性的な不品行に関しての注意です。
神さまのための働きをする上で、自分自身の身をきよく保つ必要性があるのです。
当然といえば当然のことですが、17節以降になると少し様子が変わってきます。

レビ記 21:17 「アロンに告げよ。あなたの代々の子孫のうち、身に欠陥のある者はだれも、神のパンを献げるために近づいてはならない。

そしてこの後には、身に欠陥のある者に関してより具体的な描写がされています。
目の見えない者、足の萎えた者、手足が短すぎたり長すぎたりしている者、足や手の折れた者、背の曲がったもの、背の極めて低い者などなど、障碍を持った人たちは神に近づいてはならないということが書かれているのです。
これらの言葉を通して、「聖書は差別的だ」という主張をする人たちが出てくるわけです。
果たしてその主張は本当なのでしょうか?
18~20章の中で、障碍を持った人たちを助け配慮する必要があるということが書かれていたことを思い出してください。

レビ記 19:14 あなたは耳の聞こえない人を軽んじてはならない。目の見えない人の前につまずく物を置いてはならない。あなたの神を恐れよ。わたしは【主】である。

第一に、ここでの話は彼らを差別することが目的なのではなく、あくまでも霊的なきよさに関することであり、彼らを蔑すむことが目的ではないということです。
一方で、完全な状態のささげ物がされたのと同じように、祭司としての働きをする人々も欠けたところがあってはなりませんでした。
そのような意味で区別がされていたことは確かです。
イスラエルではなく祭司たちに向けた言葉だということを思い出す必要がありますね。

第二に、祭司としての働きは責任が伴う大変な働きでもあり、全てが完全に行うことが求められていたということです。
彼らはハンディキャップを抱えたまま働きが強いられるのではなく、支えられるように配慮されていたのです。

③ 祭司としての責任

では、私たちクリスチャンはこの話から何を受け取ることができるのでしょう?
大切なのは、祭司としての責任を自覚することだと思います。

牧師やリーダーなど、名前のつけられた働きに携わる人はともかくとして、それ以外のクリスチャンはただ受け取ることを求めてしまいがちです。
聖書に書かれている祭司とは牧師のように立場が与えられている人たちのことであり、自分は一般信徒だから関係ないと思ってしまうのです。
これは、そのような扱いをしてきた教会の歴史の責任でもあると思います。
しかし、全ての信仰者は祭司であるというのが聖書の教えることです。

Ⅰペテロ 2:5 あなたがた自身も生ける石として霊の家に築き上げられ、神に喜ばれる霊のいけにえをイエス・キリストを通して献げる、聖なる祭司となります。

神さまとのつながりがない人たちのために執りなして祈り、彼らに仕えて必要な働きをし、神の国の福音を伝えていくことが私たちには求められています。
祭司としての責任を私たちは負っているからです。
しかし、どれだけ世の中の価値観に流されずに罪から離れようとしても、限界があります。
旧約的に、あるいは律法的に肉的な力でそれを成し遂げようとしても、私たちは絶望的な気持ちになるだけでしょう。
大切なのは、私たちがイエスさまを見出し、主と共に歩んでいくということです。
イエス様に近づいて共に過ごせば過ごすほど、私たちは内側から変えられていくのです。
イエスさまを携えて、いやイエスさまに携えられて歩んでいくことこそ、私たちの祭司としての働きそのものなのです。