レビ記24:1-9(レビ記24:1-23) レビ記11 『祭司としての務め』2025/11/16 けんたろ
レビ記24:1-9(レビ記24:1-23)
24:1 【主】はモーセにこう告げられた。
24:2 「あなたはイスラエルの子らに命じて、ともしび用の、質の良い純粋なオリーブ油を持って来させなさい。ともしびを絶えずともしておくためである。
24:3 アロンは会見の天幕の中、あかしの箱の垂れ幕の外側で、夕方から朝まで【主】の前に絶えずそのともしびを整えておく。これはあなたがたが代々守るべき永遠の掟である。
24:4 彼はきよい燭台の上に、そのともしびを【主】の前に絶えず整えておく。
24:5 あなたは小麦粉を取り、それで輪形パン十二個を焼く。一つの輪形パンは十分の二エパである。
24:6 それを【主】の前のきよい机の上に一列六つずつ、二列に置く。
24:7 それぞれの列に純粋な乳香を添え、覚えの分のパンとし、【主】への食物のささげ物とする。
24:8 彼は安息日ごとに、これを【主】の前に絶えず整えておく。これはイスラエルの子らによるささげ物であって、永遠の契約である。
24:9 これはアロンとその子らのものとなり、彼らはこれを聖なる所で食べる。これは最も聖なるものであり、【主】への食物のささげ物のうちから、永遠の定めにより彼に与えられた割り当てだからである。」
前回は21章から22章までを通して、祭司としての責任について学びました。
私たちは、ただイスラエルの民、ただ信徒というだけでなく、全てのクリスチャンが祭司です。
その自覚と責任を持って行動することが大切であり、そのためにはある程度意識的になる必要があるというのが、前回の話の流れだったと思います。
今回は23章を飛ばして24章からお話をします。
23章はイスラエルのお祭りのことであり、これまで復活祭(過越し)、ペンテコステ、仮庵の祭りのタイミングでお話をしてきましたから改めて取り上げる必要はないと思います。
むしろ21章からの流れで祭司について、24章を通してお話ししておきたいと思います。
① ともしびを灯す
今回は、祭司の2つの日々の務めに関して記されています。
一つ目の務めは、毎日燭台にともしびを灯すことです。
この燭台は、幕屋の聖所の中にある、7つのともしび皿があるもので、メノラーと呼ばれるものです。
これに純粋なオリーブ油を入れ、ともしびを絶えずともしておくというのが祭司の務めの一つだったのです。
これは、1か月後のメッセージにも出てくる話なので、必ず覚えておいてくださいね。
さて、レビ記に出てくるほとんどのものはイエスさまを表しているというお話をこれまでしてきましたが、この燭台ももちろんイエスさまを表しています。
ヨハネ 8:12 イエスは再び人々に語られた。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」
聖所の中は、ともしびがないと真っ暗になります。
その暗闇で常に灯されている光こそ、イエス・キリストなのです。
② 輪形のパン
二つ目の務めは、安息日ごとに十二個の輪形のパンを焼いてささげものとするということです。
十二という数字は完全数であり、十二部族の数でもあります。
興味深いことに、この輪形のパンは十二分の二エパという分量が定められていますが、これは荒野をさ迷っている間イスラエルが得た一日分のマナの量の2倍となっています。
つまり、2日間分のマナの量ということですね。
どうして2日分なのかというと、それが安息日の前日に採れたマナの量だからです。
輪形のパンは十二部族を表し、安息日に備えたマナを覚えるためのものでもあります。
そして、やはりこのパンもイエスさまを表しています。
ヨハネ 6:35 イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。
イエスさまは人に命と力を与えるパンです。
私たちは日々、イエスさまと時間を過ごし、関係を深める中で力を得ることができます。
③ 私たちも光とパン
ここにある光とパンはともにイエスさまを表すものではありますが、同時に私たちを表すものでもあります。
イエスさまはこのように言われました。
マタイ 5:14 あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。
イエスさまの光を受けて、私たちもまた世の光として輝きます。
イエスさまの光を隅々にまで届ける役割を果たすのです。
ともしびを灯すのには油が必要ですが、聖書の中で多くの場合、油は聖霊を表しています。
私たちは聖霊を受けることによって、自ら世の光として地上を照らすともしびとなることができるのです。
マタイ 26:26 また、一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、神をほめたたえてこれを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」
「わたし(イエス様)のからだ」とは教会のことです。
聖餐のパンは私たちが生けるパンであるキリストのからだの一部ですから、私たちもまたパンとして、人々に力と命を運ぶ役割を果たすのです。
旧約の時代、祭司であるレビ人たちは宗教儀式の中で象徴的にイエスさまを表しました。
現代の祭司である私たちクリスチャンは、私たちの内に住んでくださる聖霊によって、イエスさまを届けることによって祭司としての役割を果たします。
皆さんは祭司としての自覚があるでしょうか?
そして、ともに祭司としての務めを果たしていこうではありませんか。
