ルカ10:25~37「善きサマリア人が示す二つの愛」-キリストによる律法の完成― 2025/12/7 小西孝蔵
(初めに)・先週母の老人ホーム転居-入居者に寄り添うスタッフさんの姿勢に感謝、老人ホームと言えば、木場に、私の尊敬する親しい友人、田内基理事長の創設された老人ホーム「故郷の家東京」がある。先々週、彼が主催する日韓友好60周年記念講演会に参加。田内基さんの母親は、クリスチャンの田内千鶴子さん、1938年日本統治時代の朝鮮木浦で朝鮮人の尹氏と結婚。夫とともに、戦争孤児のために、地元に孤児院「共生園」を経営。その後、朝鮮戦争で、夫は行方不明、代わりに、園長として、孤児3千人を育てたことにより韓国孤児の母と呼ばれる。
・息子の田内基氏は、「共生園」の後を継ぎ、同志社大社会福祉学科を出た日本人の文枝さんと結婚。文枝さんは、2代目の孤児の母となった。「死ぬ前に梅干しが食べたい」といって亡くなった母親の死後、田内基夫妻は、共生園を現地の人たちに委ねた後、日本で在日コリアンの老人ホームを創りたいという新たなミッションを感じ、1089年、老人ホーム社会福祉法人「こころの家族」を創設し、奥さんと二人三脚で、神戸、京都、東京と5か所に「故郷の家」を設立。田内千鶴子さん、基さんン、文枝さんを突き動かしたものは、キリストによる神の愛と隣人愛であった。
・本日、この箇所を取り上げた一つ目の理由は、クリスマスが近いので、イエス様の愛の深さを一緒に分かち合いということ。二つ目の理由は、前回のマタイ3章のメッセージの中で、キリストが旧約の律法の完成のためにヨハネから洗礼を受けられたことをお話をしたことを再度確認したかったためです。ルカ10章の善きサマリア人の聖書箇所を通じて、キリストの愛こそが律法を完成させるものであることが分かる。
1.善きサマリア人の例え話
〇ルカ10章「(25節)ある律法学者が現れ、イエスを試みようとして言った、「先生、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」。( 26)・・・彼は答えて言った、「『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。また、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』とあります」。 (28)彼に言われた、「あなたの答は正しい。そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる」。
この聖書箇所は、旧約聖書の申命記とレビ記からの引用です。旧約聖書の多くの律法がこの二つに凝縮されている。イエスが聖書の律法の中で最も重要なものと言われたこの二つの教えは、マタイなど他の福音書でも取り上げられているが、サマリア人の例え話を用いてキリストの真意を具体的に分かりやすく示しているのは、ルカによる福音書だけです。
「(29節)すると彼は自分の立場を弁護しようと思って、イエスに言った、「では、わたしの隣り人とはだれのことですか」。律法学者は、自分を正当化しようとして、「隣人とはだれか」と尋ねた。彼は、自己中心で、自分はユダヤ人として律法を守っているという自信をもってはいるが、心の内では愛が欠如しているのをイエスは見抜いておられた。
私自身の心の内を顧みれば、この律法学者に似たようなところがあると実感します。霞が関で法律を作り、実施している人たちは、現代の律法学者ともいうべき人が多い。法律を作ることに熱心であっても、作った後すぐに次の仕事に変わるため、その法律がどのような影響を及ぼして行くのか見極めるために、関係者に寄り添っていく態度が疎かになっている。自分なりに努力したつもりではあるが、反省している。
「(30節)イエスが答えて言われた、「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。 (31)するとたまたま、ひとりの祭司が・・・ (32)同様に、レビ人もこの場所にさしかかってきたが、彼を見ると向こう側を通って行った。 (33)ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、 (34)近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。」
このサマリア人は、ユダヤ人が嫌っているサマリアの住民であるのにもかかわらず、倒れている人(おそらくユダヤ人)に対し、気の毒に思ったのです。日本語で、「気の毒に思う」「憐み深い」というこという単語(英語で〝Compassion“)は、ギリシャ語で、「スプランクニゼスサイ」という言葉。内臓を動かすほどの深い憐みの感情(心が砕かれる)を意味しています。福音書の中で、病人を癒すキリストの深い憐みの気持ちを表現する言葉として何度も使われています。私もお手伝いしている国際援助団体ワールドビジョンの創設者、宣教師のボブ・ピアスは、次のような言葉を残しています。”Let our heart be broken with the things that break the heart of God”(神の心を砕く事態を共にすることで、私の心を砕いてください)。これは、キリストが私たちに示して下さる「砕かれた憐みの心」を神様に求める祈りでもあります。
(35節)翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。 (36)この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」。 (37)彼が言った、「その人に慈悲深い行いをした人です」。そこでイエスは言われた、「あなたも行って同じようにしなさい」。
イエスの問いは、「誰が、強盗に襲われた人の隣人になったか」でしたが、この言葉は、律法学者の「私の隣人とはだれか」という自己中心の問いとは対照的です。キリストは、傷ついて倒れている人に、憐みと愛の心をもって寄り添い、助けてあげることこそが重要で、そのようにしなさいと命じられています。
2.善きサマリア人が示す二つの愛
1)サマリア人の例え話から二つことを学ぶことができます。第一は、隣人を愛するという教えは、律法学者のように口先だけでなく、心から行うことが重要ということ。倒れている人を深く憐れんで寄り添ってあげることこそが神から求められることです。「あなた方に新しい掟を与える、私があなた方を愛するように互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13章14節)、「私の掟を受け入れ、それを守る人は、私を愛するものである」(ヨハネ14章21節)とある通りです。
・今の自分に、最も助けを必要としている隣人は、母親と思われる。母の介護について、老人ホームに入れて、義務を果たしたという気持ちになっている自分は、善きサマリア人のように、親に寄り添っているのか? マルコ7(11)にあるように、コルバンをささげると言って務めを果たした気になっている律法学者やパリサイ人ではないのかという意識。
・私たちの周りには、両親、家族や病人・障碍者の介護、子育ての中から助けてほしいというSOSが来ます。他方、職場や社会で果たすべき責任があり、家族、家族など身近な方々からの求めとの間で、しばしば、ジレンマを感じることもあります。何を優先するか難しいですが、「何もかもはできないが何かはできる」(ボブ・ピアス)という言葉があるように、何かはできるはずです。祈りによって、神様がその時々に何をなすべきか教えてくれるのではないでしょうか。
2)第二に学ばされることは、第一の隣人愛よりも最も大事な点、隣人愛を実践するという善行は大事でも、その行為によって救われる(永遠の命を得る)ことではないということ。むしろ。私たち自身も、道端に倒れている人間の一人で、善きサマリア人に助けられたお蔭で今日があるのです。そして、私たちにとっての善きサマリア人はイエス様だということに気づく。私たち一人一人を窮地から助け出して下さったのは、実は、この憐み深いサマリア人は、まさにイエスご自身なのです。その愛は、私たちの罪のために身代わりとなり、十字架に掛かって命を捨てて下さったイエス様の愛である。隣人を助けたから永遠の命を受けるのではない、神様の一方的な愛によって、私たちが救われ、生かされているのです。「神は、その独り子を世に遣わすほどに世を愛したもうた。それは、御子を信じる者が一人も滅びることなく永遠の命を得るためである」(ヨハネ3章16節)
・神から愛されていることを感謝することで、神様との深い関係に入ることができます。神に愛されているから、その愛をもって人を愛することができるのです。神様の愛は深い、旧約時代から新約の時代、今日まで、私たち一人一人に注がれ続けている。エレミヤ書31章3節「私は、とこしえの愛をもってあなたを愛し、慈しみを注いだ」。
・キリストは,「私がこの世に来たのは、律法を廃棄するためでなく、律法を完成するために来た(マタイ5章17節)とも言われましたが、キリストは、まさに、十字架による贖罪愛と復活によって律法を完成されたのです。
4.最後に
・どうすれば、神様の元に立ち帰って、神様の愛を受け取ることができるのか?自分は、自分勝手の弱い人間。どうやって、神様の命令に従い、人を赦し、愛することができるのか?単純に、主よお助け下さいと主の御名を呼んで聖霊の働きに委ねることが一番。
〇ローマ人への手紙8章「26御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。・・・ 28神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。
・現代社会で、家族や友人を含め、多くの人たちが、経済的な困窮や心身の病で苦しんでいる、世界中に分断や対立が拡がっている。その中で、このサマリア人の例えを通じてイエスが語られた「神の愛と隣人愛」こそが救いの希望となる。クリスマスを迎えるにあたって、改めて、キリストの十字架によって罪を贖われた神様の愛の深さに感謝をささげたいと思います。 (祈り)
