民数記2:1-9(民数記2:1-34) 民数記2『旗じるしのもとに』 2025/12/28 けんたろ

民数記2:1-9(民数記2:1-34)
2:1 【主】はモーセとアロンに告げられた。
2:2 「イスラエルの子らは、それぞれ自分たちの旗のもと、自分の一族の旗じるしのもとに宿営しなければならない。会見の天幕の周りに、距離をおいて宿営しなければならない。
2:3 前方、すなわち東側に宿営する者は、軍団ごとのユダの宿営の旗の者でなければならない。ユダ族の族長はアミナダブの子ナフションである。
2:4 彼の軍団は、登録された者が七万四千六百人である。
2:5 その隣に宿営するのはイッサカル部族であり、イッサカル族の族長はツアルの子ネタンエルである。
2:6 彼の軍団は、登録された者が五万四千四百人である。
2:7 その次はゼブルン部族で、ゼブルン族の族長はヘロンの子エリアブである。
2:8 彼の軍団は、登録された者が五万七千四百人である。
2:9 ユダの宿営に属し、その軍団ごとに登録された者の総数は、十八万六千四百人。彼らが先頭を進まなければならない。

ハヌカの話を挟んでしまいましたが、今日は民数記から2回目のメッセージです。
前回はイスラエルの十二部族の人口調査についてお話ししました。
今回は、十二部族それぞれの陣営と配置についての話です。
イスラエルがエジプトを出て、紅海(葦の海)を渡ってエジプト軍を振り切った後、約束の地であるカナンに入るまでどのように進んでいくかというそれぞれの配置について記されています。
ここから私たちは何を学んでいくことができるでしょう?

① イスラエルの陣営

これも文字で読むよりも、図で視覚的に見た方が分かりやすいと思いますので図にしてみました。
これだけの人数が移動するのですから壮大な景色だったでしょうね。
そして、周りの民族に対しては大きな脅威だったのではないかと思います。
この民族大移動が、幕屋から立ち上る雲の柱、火の柱を頼りに移動していくわけです。

この陣営に関して、私たちが汲み取るべきことは二つあります。
第一に、この陣営の先頭を切るのはユダ族だったということです。
これは創世記の時代、ユダのルーツに遡ります。
ユダの父ヤコブは、創世記の最後でそれぞれの息子たちを祝福しましたが、ユダに対してはこのような言葉をかけていました。

創世記 49:9 ユダは獅子の子。わが子よ、おまえは獲物によって成長する。雄獅子のように、雌獅子のように、うずくまり、身を伏せる。だれがこれを起こせるだろうか。
49:10 王権はユダを離れず、王笏はその足の間を離れない。ついには彼がシロに来て、諸国の民は彼に従う。

イスラエルの陣営の先頭を行くユダは、この予言の成就でもあるのです。
これはさらに、ユダ族のダビデが王となり、最終的にはキリスト・イエスの誕生によって完成するのです。
つまり、ユダ族が先頭を行くことは、イスラエルが王に従って進むことを意味し、私たちにはイエスさまに従って歩んでいくことを象徴しているのです。

この陣営から学ぶことができる第二のことは、陣営の中心にいたのが幕屋と契約の箱を運ぶレビ人だったということです。
契約の箱は、神さまがイスラエルと共におられることの象徴です。
同じように、私たちの中心にもつねに神さまがおられる必要があります。

私たちの人生の歩みの中心に、いつもかみさまはおられるでしょうか?
また、私たちはイエスさまを先頭として、その後に従って進んでいるでしょうか?
「教会生活」おか「宗教活動」の話ではありません。
人生の中心に神さまがいて、イエスさまが主導となっているかどうかが大切なのです。

② 掲げられる旗

さて、この箇所でもう一つ取り上げておく必要のあることがあります。
それは、旗についてです。

2:2 「イスラエルの子らは、それぞれ自分たちの旗のもと、自分の一族の旗じるしのもとに宿営しなければならない。会見の天幕の周りに、距離をおいて宿営しなければならない。

イスラエルは、それぞれに自分たちの旗のもとに集まりました。
この旗には三つの用途があります。
一つは、旗じるしという言葉で表されている、「しるし」としての旗です。
それは自分の所属している場所を象徴し、そこに集まり、留まるのです。

二つ目の用途は、「合図」としての旗です。
多くの場合、それは戦いの合図として掲げられます。

イザヤ 5:26 主は遠く離れた国に旗を揚げ、地の果てから来るように合図される。すると見よ、それは急いで速やかに来る。

イザヤ書にあるこの時には、この合図によって、ユダへの裁きを下すためにバビロンの軍が押し寄せるという預言が語られました。
このように、何かのアクションを起こすための合図として旗は用いられるのです。

三つ目の用途は、「士気」を挙げることです。

イザヤ 11:10 その日になると、エッサイの根はもろもろの民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼のとどまるところは栄光に輝く。

これは「しるし」と「合図」としての役割があるからこそ、結果として自然に起こることでもあります。
旗が掲げられることは特別な意味を持つことなので、それを見る人々の心が燃え上がるのです。

私たちは、イエスさまの旗のもとに集まり、イエスさまのもとに留まり、イエスさまの導きを合図として様々なことをしていくことが求められています。
そして、私たちがそのように主と共に歩んでいるなら、主が共にいるというだけで私たちの心は励まされ、喜びに満たされていくようになります。
その旗のあるところに、神の国があるからです。
皆さんが主の旗のもとに集うことができますように。