民数記3:1-4(民数記3:1-4:49) 民数記3『レビ族の登録』2026/1/3 けんたろ

民数記3:1-4(民数記3:1-4:49)
3:1 これは、【主】がシナイ山でモーセと語られたときの、アロンとモーセの系図である。
3:2 アロンの息子たちの名は、長子ナダブ、アビフ、エルアザル、イタマル。
3:3 これらはアロンの息子たちの名で、彼らは油注がれて祭司職に任じられた祭司であった。
3:4 ナダブとアビフは、シナイの荒野で【主】の前に異なる火を献げたときに、【主】の前で死んだ。彼らには子がいなかった。それでエルアザルとイタマルが父アロンの生存中から祭司として仕えた。

民数記からのメッセージ第三弾です。
これまで、イスラエルの12部族の登録と、それぞれの陣営についてお話し指摘ました。
今回は、前回までに出てこなかったレビ族の話です。
そんなわけで、今日はレビ人がどのような人たちかということを中心にお話ししていきたいと思います。

① レビ人とは

民数記に入って、十二部族と言う言葉がたくさん出てくるようになりますが、十二部族とは何だったでしょう?
これを理解するためには、創世記に出てくるヤコブの物語まで遡る必要があります。
ヤコブの息子たちを生まれた順に紹介していくと、ルベン、シメオン、レビ、ユダ、ダン、ナフタリ、ガド、アシェル、イッサカル、ゼブルン、ヨセフ、ベニヤミンです。
11番目の息子だったヨセフは、死んでしまったと思われていましたが、実はエジプトで生きていて、最終的にヤコブたちを助けてエジプトで生きていくことになります。
その時、ヨセフの子どもたち、エフライムとマナセは死んだと思われていたヨセフに代わってヤコブの子どもとして遺産を相続することとなります。
遺産を相続すると言っても、実際の財産はエジプトの高官となったヨセフの方が圧倒的に持っているのです。
これは、神さまと出会いイスラエルという名で呼ばれるようになったヤコブの子とされることによって、イスラエルの部族として名を連ねるようになることを意味していました。

そこで、イスラエルの十二部族の名まえを並べて比較してみましょう。
十二部族は、ルベン族、シメオン族、ユダ族、ダン族、ナフタリ族、ガド族、アシェル族、イッサカル族、ゼブルン族、マナセ族、エフライム族、ベニヤミン族となっています。
ヤコブの息子たちの中から、ヨセフの名がなくなってマナセとエフライムになったことが分かりますね。
でも、それだけだと部族の数が増えて十三部族となるはずですが、そうはなりません。
それは、息子たちの名まえからレビの名が外されているからです。

そこで本題のレビ族です。
レビの末裔からはモーセが生まれました。
恐らくはそこから始まったのだと思いますが、モーセが生まれたレビ族はイスラエルを代表し、約束の地を受け継ぐ十二部族からは外れ、全ての部族に仕える祭司の民としての役割を与えられるようになったのです。

② 祭司とレビ人の違い

こうして、祭司の働きをする「レビ人」という立ち位置に立ったレビ族の人々ですが、彼らはさらに細かい部族に分けられて役割分担がされています。
まずはアロンとその直系の子孫には祭司・大祭司という役職が与えられました。

十二部族の中では祭司の民とされていたレビ人ですが、実際に幕屋の中で働きをすることができたのは、役職として祭司や大祭司を受け継いだ人々だけです。
他のレビ人は、実際には聖所に入ったり、祭具に見たり触れたりすることもなく、祭司の補助をするだけでした。
いけにえを屠ったり、捧げたり、荒野では祭具を運んだりと言う雑用をすることがレビ人の役目だったようです。
だから、レビ人と祭司・大祭司とは厳密には別のものということになりますね。

レビ人はさらに細かく分けられ、ゲルション(歴代誌ではゲルショム)族、ケハテ族、メラリ族がいました。
一方でアロンの息子はナダブ、アビフ、エルアザル、イタマルですが、ナダブとアビフは神様に異なる火をささげたことによって死んでいます。
その子供たちがいたとしても、祭司になることができたのはごく一部の人たちだけだったことが分かりますね。

③ それぞれに役割がある

さて、私たちは今回の話をどのように自分のこととして適用すればよいのでしょう?
祭司と言う役割は、人と神の間に立って祭儀を行う立場でしたから、神さまには特別な人たちしか近づくことができないというような、新約聖書の価値観とは矛盾する考え方が根底にあるように見えます。

でもこれは、祭司という役割がキリストの型になるものだからということであって、その役職そのものが大切なのではありません。
最終的には、私たち全てのクリスチャンが祭司としての働きをするようになるのですから、教会の中にそういう役職が必要になるということでは全くありません。

一方で、それぞれの部族に違う役割が与えられていることは確かなことでもあり、そこに秩序が必要だということも確かです。
これは、新約の時代になってどのように当てはめられるのかということに関して、パウロが分かりやすく説明しています。

エペソ 4:16 キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。

ローマ 12:4 一つのからだには多くの器官があり、しかも、すべての器官が同じ働きをしてはいないように、
12:5 大勢いる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、一人ひとりは互いに器官なのです。

イスラエルは一つの神の民ですが、それぞれに違う性質を持ち、違う役割が与えられています。
そして、その役割を越えて働きをしてはいけないと命じられ、訓練されていました。
レビ人にはレビ人の働きがあり、他の部族にそれぞれあり、互いに補い、支え合っていたのです。

新約の時代に生きる私たちは、みんな祭司となったので祭司という役職はもうありません。
でも、それぞれに与えられた役割があり、それに応じた賜物が与えられていることに代わりはありません。
そして、私たちも互いに支え合うことによって、一つの体としての役割を担うのです。

レビ人がそうだったように、私たちにもそれぞれに役割が与えられています。
皆さんは、自分に与えられている役割をどれだけ捉えられているでしょうか?
まずそれを受け取ることが大切なことです。
そして、他の人たちを見て合わせようとしたり、羨ましがったりするのではなく、自分に与えられている使命に忠実にいきましょう。