民数記5:1-7(民数記5:1-31) 民数記4『神と人との関係』2026/1/18 けんたろ
民数記5:1-7(民数記5:1-31)
5:1 【主】はモーセにこう告げられた。
5:2 「イスラエルの子らに命じて、ツァラアトに冒された者、漏出を病む者、死体によって身を汚している者をすべて宿営の外に追い出せ。
5:3 男でも女でも追い出し、彼らを宿営の外に追い出し、わたしがそのただ中に住む宿営を、彼らが汚さないようにしなければならない。」
5:4 イスラエルの子らはそのようにして、彼らを宿営の外に追い出した。【主】がモーセに告げられたとおりにイスラエルの子らは行った。
5:5 【主】はモーセにこう告げられた。
5:6 「イスラエルの子らに告げよ。男にせよ、女にせよ、他人に何か一つでも罪となることを行って【主】の信頼を裏切り、後になって、その人自身がその責めを覚えたときは、
5:7 自分が行った罪を告白しなければならない。その人は償いとして総額を弁償し、それにその五分の一を加えて、償いの責めを果たすべき相手に支払わなければならない。
これまでの間に、各部族の人数が数えられ、進む上での配置が決められ、レビ人の役割が定められてきましたが、今回はイスラエルの民として歩んでいく上での注意事項です。
先に内容だけ話しておきますと、ツァラアトや漏出のあった者(生理や性行為をした人たちを含む)たちは宿営の外に出されました。
新改訳聖書では「追い出せ」と強い言葉が使われていますね。
この部分だけ見ていると、病気の人たちを追い出せだなんて、神さまには慈悲がないのかと思ってしまいそうです。
少し解説が必要だと思いますので、今日は民数記5章からお話をしていきましょう。
① 聖書の言葉の受け取り方
前提条件として理解しておくべきことがあるのですが、聖書に置いてイスラエルに与えられている役割の一つは、見えない神さまを見えるようにするためのキャンバスのようなものです。
例えば、アブラハムはやっと生まれた自分の子どもをいけにえとして捧げるように命じられましたが、それはひとり子イエスさまを人間のために犠牲とする神さまの痛みを表したものでした。
ホセアと言う預言者は娼婦と結婚し、愛し続けるように命じられましたが、それは何度も霊的姦淫を犯すイスラエルを、それでも愛し続ける神さまの愛と痛みを表したものでした。
それと同じように、聖書の中でイスラエルに命じられていることの中には、神さまの性質を表すことや、イエスさまを表すために命じられていることがたくさんあります。
そこで必要なのは表面的に同じようにするということよりも、その裏にある意味を理解することです。
アブラハムが子供をささげたから私たちも自分の子どもをいけにえとして捧げようとしたり、ホセアがそうしたように娼婦と結婚しようとはなりませんね。
同じように、イスラエルの民に命じられていることも、表面だけなぞってマネをするのではなく、そこに込められた意味を理解して適用していくことが大切です。
それを踏まえたうえで、今日の箇所に書かれていることをもう一度見ていきましょう。
② ねたみに関しての規定
5:2 「イスラエルの子らに命じて、ツァラアトに冒された者、漏出を病む者、死体によって身を汚している者をすべて宿営の外に追い出せ。
5:3 男でも女でも追い出し、彼らを宿営の外に追い出し、わたしがそのただ中に住む宿営を、彼らが汚さないようにしなければならない。」
宿営と言うのは幕屋がある場所のことです。
幕屋は神様の臨在の象徴の場所であり、他の場所とは分けられなければなりません。
この箇所で表されているのは、神さまとけがれは同居することがないということなのです。
イスラエルの民は、民全体でそれを表現したのです。
さて、民数記の5章にはこれ以外にも大きな割合を裂いて記されているひとつのことがあります。
それは、夫から妻への嫉妬に関する規定です。
実はそのことに関する記述が、11~31節までと5章の大半を占めているのです。
妻が夫に対して不貞を働いた場合には厳重に罰せられることになるのですが、ここに記されているのはそれがはっきりとしないとき、その罪を明確に判定する方法が記されています。
この記述を読む中で、私たちは二つのことを疑問に思うかもしれません。
第一に、律法には「ねたんではならない」と書かれていたのではないかということです。
これに関しては、何に対する妬みかという部分で、全く別のことがらを指していることがわかります。
律法の中にあるのは「人の持ち物を羨ましいとねたんではならない」という話。
ここで問題とされているのは、自分の妻が不貞を働いたときにねたむという話です。
前者は禁じられていますが、後者に関しては当然のこととされています。
話しているとこの違いを認識できない方がいるようで時々驚かされますが、同じ「ねたみ」についての話でも全く別の問題だということはお分かりになるでしょうか?
第二の疑問は、「夫の妻に対するねたみについては書かれているのに、妻から夫への妬みについての規定が書かれていないのはなぜか」ということです。
夫も不貞を働くし、それを妻がねたむことも当然のことではないかということです。
これは当時の社会的な価値観と言うのも影響しているかもしれませんが、別の理由があると僕は思います。
それは、ここでは神と民との関係が象徴されているからです。
聖書の中で、夫は神様やキリストを表し、妻や花嫁は民、あるいは教会を表すものです。
私たちが配偶者の不貞に対して妬みの心を持ち、傷つき、悲しむのと同じように、神さまは私たちが霊的な姦淫を犯して神さま以外のものを頼りにすることを悲しみ、傷つかれるのです。
③ 霊的な姦淫
聖書にはこのように書かれています。
ゼカリヤ 8:2 万軍の【主】はこう言われる。「わたしは、シオンをねたむほど激しく愛し、激しい憤りをもってこれをねたむ。
ここでいうシオンとはイスラエルの民のことです。
そして、これと同じ愛で私たちを愛しておられるのです。
妻や夫、あるいは恋人が浮気をしたことを想像してみてください。
心が苦しくなったり、激しい怒りの感情が湧いてくるのではないでしょうか?
私たちが、神さま以外のものを神さまよりも上にするとき、神さまはそのような激しい怒りや悲しみ、痛みの中にあるのです。
それが愛です。
「妻や夫、恋人に裏切られても別に何とも思わない」と感じる人は、心が広いわけではありません。
ただ、その相手を愛していないだけです。
誰かを愛することは、私たちが弱みを持つということでもあるのです。
神さまが私たちを愛してくださっているということは、完全無欠の神さまが私たちのためにそのような弱さを持ってくださったということでもあります。
聖書の中で怒りを露わにする神さまを視て、「聖書の神は怒ってばかり心が狭い」という人たちもいますがそれは違います。
神さまにとって私たちは、何をしようがどうでもいい存在なのではなく、私たちのために感情的になるほど私たちを愛してくださっているということなのです。
そんな神さまを、私たちはどれほど傷つけ、苦しめていることでしょう?
私たちは当たり前のように、神さま以外のものを神さまより上にして霊的な姦淫を犯してしまいます。
それでも私たちを愛し続け、赦してくださるのが神さまではありますが、これ以上神さまを傷つけるようなことはしたくないものです。
神さまに立ち返り、神さまを第一としませんか?
神さま、私たちをそれよりもずっと大きな愛で、すでに私たちを愛してくださっているのですから。
