民数記6:1-5(民数記6:1-27) 民数記5『ナジル人の誓願』 2026/1/25 けんたろ

民数記6:1-5(民数記6:1-27)
6:1 【主】はモーセに告げられた。
6:2 「イスラエルの子らに告げよ。男または女が、【主】のものとして身を聖別するため特別な誓いをして、ナジル人の誓願を立てる場合、
6:3 その人は、ぶどう酒や強い酒を断たなければならない。ぶどう酒の酢や強い酒の酢を飲んではならない。また、ぶどう汁をいっさい飲んではならない。ぶどうの実の生のものも、干したものも食べてはならない。
6:4 ナジル人としての聖別の全期間、彼はぶどうの木から生じるものはすべて、種も皮も食べてはならない。
6:5 彼がナジル人としての聖別の誓願を立てている間は、頭にかみそりを当ててはならない。【主】のものとして身を聖別している期間が満ちるまで、彼は聖なるものであり、頭の髪の毛を伸ばしておかなければならない。

今日はナジル人についての解説です。
皆さんはナジル人を知っているでしょうか?
聖書の中でたくさん出てくるわけではないのですが、あまり説明されていないわりに説明もなく唐突に出てくるので混乱しやすい存在です。
そこで、なかなか本編に戻れずじれったい部分はあるのですが、今日はナジル人についてじっくり解説していきたいと思います。

① ナジル人とは

そもそも、ナジル人とは何なのでしょう?
ナジル人というのは、「聖別された人」というような意味があるそうですが、聖書によれば「特別な誓願を立てた人」のことです。
誓願と言っても、見る限り自分に何か願い事があってそれをかなえてもらうために何かをするということではなく、自分自身を神さまの目的のために使ってもらうということが大きい様に思います。
なので、ナジル人のことを簡単に説明すると、「特別なことのために自分の人生を神さまに捧げた人」と言えるかもしれません。

聖書の中に出てくるナジル人としては、①サムソン、②サムエル、③エリヤ、④バプテスマのヨハネなどが挙げられます。
それぞれに特別な使命を持った裁き司や預言者だったことがわかります。

とは言え、サムソンの生き方なんかを見ていると、その人生のほとんどは自分勝手に生きていたように思います。
ただ一点、「髪を切らない」ということだけを守り、それによってペリシテ人を倒す特別な力を与えられていました。
これに関しては、「その程度献身していればいい」ということではなく、ナジル人でさえそんな有り様のとんでもない時代だったけど、それでも神さまは用いてくださったという感じだと思います。

② ナジル人の規定

民数記に記されているナジル人として生きるための規定には、大きく分けて3つのことがあります。
第一に、ぶどうの木から作られたものを口にしないこと。

6:4 ナジル人としての聖別の全期間、彼はぶどうの木から生じるものはすべて、種も皮も食べてはならない。

第二に、髪を切らない。

6:5 彼がナジル人としての聖別の誓願を立てている間は、頭にかみそりを当ててはならない。【主】のものとして身を聖別している期間が満ちるまで、彼は聖なるものであり、頭の髪の毛を伸ばしておかなければならない。

そして第三に、死者に近づかないということです。

民数記 6:6 【主】のものとして身を聖別している間は、死人のところに入って行ってはならない。
6:7 父、母、兄弟、姉妹が死んだ場合でも、彼らとの関わりで身を汚してはならない。彼の頭には神への聖別のしるしがあるからである。

これらのことを通して、ナジル人となる者は自分自身を神さまに用いていただくよう誓願し、そのための器となったのです。
この誓願は特定の期間だけのもので、その期間が終わるとまた普通の人として生きるというのが普通でした。

先ほどお話ししたように、サムソンは髪の毛のこと以外は全く守らなかったチャランポランのナジル人でしたが、
サムエル、エリヤ、バプテスマのヨハネたちは献身的で、徹底的に自分を戒めるような生活をしていました。
特にエリヤやバプテスマのヨハネは、荒布や藁で作った服という着心地の悪いものを身にまとっていたり、イナゴと蜜しか口にしないという徹底ぶりでした。
そういう生き方が素晴らしいとはあまり思いませんが、そうしてまでも神さまに用いられる器とし徹しようとする姿勢と信仰は迫力を感じますね。

③ 究極のナジル人

さて、こうして誓願を立てて自らを神さまに捧げる人をナジル人と呼ぶことを学んできましたが、これまで律法について学んできた私たちにはこれが何を意味しているか分かると思います。
ナジル人も、あるものの象徴として存在するものです。
言ってみれば、究極のナジル人のようなものがあって、ナジル人として誓願を立てることはその型であり、究極のナジル人を理解するための手がかりとしてあるものなのです。

では、究極のナジル人とは何でしょう?
そう、イエスさまですね。
イエスさまは、ナジル人としての誓願を立てた生涯を送ったかと言うと、決してそうではありません。
髪を切ったことがあるかどうかはわかりませんが、死体に触れたこともありますし(よみがえらせるため)、結婚式では水をぶどう酒に変えました。
大酒のみの大飯ぐらいと揶揄されることもありましたし、主の晩餐ではぶどう酒をまわしました。

しかし、私たちがそのような生き方をする不自由さとは比べ物にならない不自由さを、イエスさまは体験してくださいました。
それは、神である御子が、地上に来て人間となってくださるという不自由さです。
イエスさまはさらに、ご自身の命を文字通り捧げ、私たちのための犠牲となってくださいました。
その存在すべてを掛けて、その生涯を全うしてくださったのです。

イエスさまは十字架かる前の晩、このように言いました。

マタ 26:29 わたしはあなたがたに言います。今から後、わたしの父の御国であなたがたと新しく飲むその日まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは決してありません。」

ぶどうの実からできたものを飲まないことは、ナジル人としての誓願と一致しますね。
イエスさまがこのように言ったのは、これから起こる出来事が、ナジル人として神さまに自分自身をささげた結果だということを強調するためかもしれません。

私たちも、キリストの弟子として、自分の全てを神さまに捧げることが求められています。
そのために節制した生活を送る必要はないかもしれませんが、自分の願いや願望を捨てて神さまに従うべき時はきっと来るでしょう。
その時私たちは、神さまに身も心も捧げて神さまに従うことができるでしょうか?
私たちにも、その覚悟を持てるよう、求めて祈っていきませんか?