民数記11:1-6(民数記11:1-35) 民数記7『祝福に気づけない』 2026/02/08 けんたろ
民数記11:1-6(民数記11:1-35)
11:1 さて、民は【主】に対して、繰り返し激しく不平を言った。【主】はこれを聞いて怒りを燃やし、【主】の火が彼らに向かって燃え上がり、宿営の端をなめ尽くした。
11:2 すると民はモーセに向かってわめき叫んだ。それで、モーセが【主】に祈ると、その火は消えた。
11:3 その場所の名はタブエラと呼ばれた。【主】の火が、彼らに向かって燃え上がったからである。
11:4 彼らのうちに混じって来ていた者たちは激しい欲望にかられ、イスラエルの子らは再び大声で泣いて、言った。「ああ、肉が食べたい。
11:5 エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、玉ねぎ、にんにくも。
11:6 だが今や、私たちの喉はからからだ。全く何もなく、ただ、このマナを見るだけだ。」
出エジプト記の途中からレビ記、民数記と進んできて、しばらくの間は信仰者としての原則の部分を見てきました。
律法や祭儀、秩序を持った部族ごとの配置などはすべて、人々が救い主を見出し、キリストの繋がっていくための仕組みでしたね。
そこには神さまが私たちに求める愛のある行動や、秩序も示されていました。
ここからは、再びイスラエルという人々に焦点が当てられます。
彼らがどのように反応し、どのようにふるまい、どのように生きたか。
最初に言っておきますが、旧約聖書はそんなイスラエルの失敗の歴史でもあります。
人がどれほど愚かで、間違った方向に進んでしまうか。
人の心がいかに神さまの方を向かず、見当違いな方向に進んでしまうかという物語です。
そしてこれは、現代の教会の物語でもあります。
「あ~、人間は罪人だから仕方がないんだな」…そうではありません!
私たちに求められているのは、そこに自らの罪を見出し、気づいて、同じ失敗を繰り返さないように方向転換することです。
そのことを踏まえて、イスラエルの物語を見ていきましょう。
① イスラエルの不平
さて、イスラエルの人々に焦点が戻って真っ先に始まるのは何かというと、神さまへの不平不満です(笑)。
11:1 さて、民は【主】に対して、繰り返し激しく不平を言った。【主】はこれを聞いて怒りを燃やし、【主】の火が彼らに向かって燃え上がり、宿営の端をなめ尽くした。
思わず笑ってしまうくらい絶望的ですね。
彼らの不平不満が何だったかというと、贅沢できないということに対する不満です。
われわれ現代人は、この時のイスラエルの問題に気づきにくいと思います。
なぜなら、同じ問題を僕たちも抱えているからです。
奴隷という最底辺から引き上げられ、約束の地まで荒野を旅していく彼らに必要だったのは、「生きていくことができる」という最低限の保証です。
本来はそんなもの得られるはずがありません。
普通に考えたら、何百万人もの人たちが荒れ地をさ迷って、食べ物や飲み物を見つけていき残ることなんてそもそも不可能なんです。
でも、神さまがそれを保証してくださった。
毎日マナが与えられ、必要なときに必要な量の水が与えられました。
でも、それによって満足するのは一瞬のことです。
最低限の保証が満たされると、より贅沢なものを求めるようになる。
この時イスラエルが求めたのは「肉が食いたい」ということでした。
肉が食べられれば満足するのかというと、それで満足できるのはやはり一瞬だけです。
継ぎにはまた別のものがないと満足できなくなり、不平不満は永遠に続いていくのです。
② 祝福を受け取れない
それでは、私たちは極貧生活をするべきで、贅沢を求めてはいけないということでしょうか?
そんなことはありません。
より良いものが食べられるなら、感謝してそれを受け取ればいいのです。
問題なのは、与えられることが当たり前になり、よりよいものを際限なく求めてしまうことです。
食べるものが満たされれば、次は住むところ、それが満たされれば着るもの、身につけるもの、娯楽、力、権力、名誉…と、私たちはどれだけでも求めていきます。
そして、少しでも供給が遅れたり、持っていたものが失われると、途端に不平不満を持つようになるのです。
問題はそれだけではありません。
そうして私たちが、神さまではなく自分の欲しいものが満たされることに心が向けられていくと、既に与えられているものや、そこにある祝福にすら気づかなくなってしまいます。
人々には、すでにマナが与えられているのに、それが祝福だとは思えなくなってしまいました。
それと同じことが私たちにも起こっているのではないでしょうか。
③ 祝福に気づかない?
私たちには、既に与えられている祝福がたくさんあります。
でも、多くの場合私たちはそのことに気づきません。
それが当たり前になっているからです。
それを失って初めて気づくこともあります。
例えば健康がそうかもしれません。
病気になって初めて、健康だったことがどれほど大きな祝福だったかに気づくのです。
でも、それに気づくことができればまだいい方です。
場合によっては、与えられていたことが当たり前のことではなかったのに、それが失われたときに神さまに文句を言うなんてことも起こります。
「神さまはなぜ、私からこの幸せを奪うのですか!?」と言って、神さまに対して怒るのです。
皆さんにはそんな経験がないでしょうか?
また、神さまに与えられたことに気づかないということも起こります。
「神さま、私にはお金が必要です。与えてください」
そして、仕事が与えられてもそれをスルーして、お金が降ってくることだけを求めるのです。
マナが与えられているのにスルーして、「なかなか与えてくださらない」と嘆いてしまっていないでしょうか?
神さまに求めているのに、なかなか与えられないものはありませんか?
もしかすると、それは既に与えられているのに、私たちが気づいていないだけかもしれません。
また、自分の人生や身の回りに起こることに不平や不満があるとき、気を付けてください。
私たちはもしかすると、与えられている以上の祝福を求めてしまっているのかもしれません。
今、私たちが本当に必要なものはなんでしょう?
もう一度言いますが、現代人の私たちは贅沢になっているので、それが見えにくくなっています。
自分の願うことではなく、神さまが与えている祝福に心を向けてみてください。
神さまはすでに、数えきれないほどの祝福を皆さんに与えてくださっているはずです。
