民数記11:24-30(民数記11:1-35) 民数記8『神の言葉に気づけない理由』 2026/2/20 けんたろ
民数記11:24-30(民数記11:1-35)
11:24 モーセは出て行って、【主】のことばを民に語った。そして民の長老たちのうちから七十人を集め、彼らを天幕の周りに立たせた。
11:25 すると【主】は雲の中にあって降りて来て、モーセと語り、彼の上にある霊から一部を取って、その七十人の長老に与えられた。その霊が彼らの上にとどまると、彼らは預言した。しかし、重ねてそれをすることはなかった。
11:26 そのとき、二人の者が宿営に残っていた。一人の名はエルダデ、もう一人の名はメダデであった。彼らの上にも霊がとどまった。彼らは長老として登録された者たちだったが、天幕へは出て行かなかったのである。彼らは宿営の中で預言した。
11:27 それで、一人の若者が走って来て、モーセに告げた。「エルダデとメダデが宿営の中で預言しています。」
11:28 若いときからモーセの従者であったヌンの子ヨシュアは答えて言った。「わが主、モーセよ。彼らをやめさせてください。」
11:29 モーセは彼に言った。「あなたは私のためを思って、ねたみを起こしているのか。【主】の民がみな、預言者となり、【主】が彼らの上にご自分の霊を与えられるとよいのに。」
11:30 それから、モーセとイスラエルの長老たちは、宿営に戻った。
「神さまの声を聞く」ということを、僕はよく口にします。
でも、「神さまの声はよく分かりません」ということをよく耳にします。
神さまの声がよく分からないという方はどれくらいいらっしゃるでしょうか?
そうですね、まぁ神さまの声は僕たちにはそれほどはっきりとわかるわけではないのは確かだとは思うのですが、それでも聖霊が与えられているクリスチャンである以上、ある程度は聞き分けられるはずなんです。
聖書にはこのように書かれています。
ヨハネ 10:3 門番は牧者のために門を開き、羊たちはその声を聞き分けます。牧者は自分の羊たちを、それぞれ名を呼んで連れ出します。
少なくとも聖書の時代のクリスチャンは、それぞれに神さまの声を聞いて行動していたことが聖書の中で記されています。
では、私たち現代のクリスチャンの多くが、神さまの声がわからないと感じるのはなぜなのでしょう?
今日はそんな話をしていきたいと思います。
① 神さまの声が聞けない理由
前回の話を少し思い出してください。
エジプトを出たイスラエルはシナイ山の辺りでしばらくとどまっていましたが、ついに神さまのゴーサインを受けて、再出発しました。
すると、すぐに人々の間から不平不満が出てきましたね。
「肉が食べたい」「エジプトの時の方がよかった」そんな言葉でした。
贅沢をしてしまうと、与えられている祝福を忘れてしまうからです。
毎日与えられていたマナの祝福が見えなくなってしまうのです。
そのことを通して気づいたことがあったというお話も前回しました。
何に気づいたかというと、冒頭の話と関係しているのです。
どうして神さまの言葉が分からないのか?
マナは神様の御言葉だという話もありますが、与えられているマナに気づかなくなってしまうように、私たちは与えられている神さまの声が聞こえていても、それに気づけなくなってしまう状況に陥っているのではないかと思ったのです。
そしてその原因を作っているのは、僕だったのではないかと思い立ったのです。
皆さんが「そんなことはない」と言ってくださるのは知っています。
でも、こうして御言葉を取り次いで、分かりやすくリッチなメッセージをすればするほど、多くの人たちは自分で神さまの声を聞こうとする意志や、その力を失わせてしまっているのではないかと思いました。
神さまの声は、時としてマナのように質素で、必要最低限のことばです。
いつも新しい気づきがあるとは限らないし、感動があるとも限りません。
案外普通のことだったりするのです。
それを前提としたうえで、神さまの言葉を日々受け取ってほしいなぁと思います。
② 預言する長老たち
現代の教会が抱える問題と似たような問題が、イスラエルの中にも起こっています。
今回の箇所で語られていたのは、長老たちも預言をしたということです。
11:24 モーセは出て行って、【主】のことばを民に語った。そして民の長老たちのうちから七十人を集め、彼らを天幕の周りに立たせた。
11:25 すると【主】は雲の中にあって降りて来て、モーセと語り、彼の上にある霊から一部を取って、その七十人の長老に与えられた。その霊が彼らの上にとどまると、彼らは預言した。しかし、重ねてそれをすることはなかった。
預言というのは、モーセと同じように神様の言葉を取り次ぐということですね。
私たちに身近なところでは、メッセージも預言の範疇だと思っています。
この時には七十人の長老たちが集められて預言をしました。
でも、それはその時だけのことだったんです。
これは一回だけ許された、特別な働きだったのでしょうか?
そうではありません。
本当はこの後も預言できるはずだったのです。
でも、彼らはそれを望みませんでした。
そして、モーセにすべてを負わせることを選んだのです。
そんな中で、エルダデとメダデというふたりの長老が預言をしました。
しかし、それを批難する人がいました。
モーセに直接仕えていたヌンの子、ヨシュアです。
11:28 若いときからモーセの従者であったヌンの子ヨシュアは答えて言った。「わが主、モーセよ。彼らをやめさせてください。」
ヨシュアは、モーセの許可もなく勝手に預言をするエルダデとメダデは許されるべきではないと思ったのです。
しかし、モーセはそんなヨシュアを戒めます。
11:29 モーセは彼に言った。「あなたは私のためを思って、ねたみを起こしているのか。【主】の民がみな、預言者となり、【主】が彼らの上にご自分の霊を与えられるとよいのに。」
③ 誰もが神さまの言葉を取り継ぐ時代
モーセが願っていたことは、ここでは長老たちが神さまの声を聞き、それを取り継いで預言をするということでした。
そしてそれは、やがてすべてのイスラエルの民へと広がり、互いに預言し合う姿を夢見ていたのです。
それは、神さまがしようとしていた計画と一致していました。
しかし、あまりにも多くの人たちがそれを否定しました。
ヨシュアを始めとする多くの人たちは、モーセだけが選ばれた者であり、神さまに近づく権威はわずかな人だけが持つべきものだと思っていたのです。
一人の人が選ばれ、用いられる集まりは、全ての権威がその人に集まります。
そして、その人に何か問題が起こったときには全て終わってしまうのです。
リーダーが間違えたら、全ての民が終わりになります。
一人の人しか神さまの声を聞けなければ、その人の言うことがすべて神の言葉となります。
間違えたことを言っていても、他の人は誰も気づけないのです。
これこそ、現代の教会が抱えているのと同じ問題です。
こうして教会はカルト化していくわけです。
神さまの声を聞くことを放棄しないでください。
私たち全てのクリスチャンには聖霊が住んでくださっているのです。
それぞれが神さまの声を聞き、互いに支え合うことこそが神さまの望む教会の姿です。
僕がその邪魔をしてしまっていたことを申し訳なく思います。
皆さんがもっともっと、神さまの声に耳を澄ませるようになって欲しいと心から願っています。
神さまは、今何を語り掛けているでしょうか?
