民数記12:1-9(民数記12:1-16) 民数記9 『神に選ばれる器』2026/02/28 けんたろ

民数記12:1-9(民数記12:1-16)
12:1 そのとき、ミリアムとアロンは、モーセが妻としていたクシュ人の女のことで彼を非難した。モーセがクシュ人の女を妻としていたからである。
12:2 彼らは言った。「【主】はただモーセとだけ話されたのか。われわれとも話されたのではないか。」【主】はこれを聞かれた。
12:3 モーセという人は、地の上のだれにもまさって柔和であった。
12:4 【主】は突然、モーセとアロンとミリアムに、「あなたがた三人は会見の天幕のところへ出よ」と言われた。そこで彼ら三人は出て行った。
12:5 【主】は雲の柱の中にあって降りて来られ、天幕の入り口に立って、アロンとミリアムを呼ばれた。二人が出て行くと、
12:6 主は言われた。「聞け、わたしのことばを。もし、あなたがたの間に預言者がいるなら、【主】であるわたしは、幻の中でその人にわたし自身を知らせ、夢の中でその人と語る。
12:7 だがわたしのしもべモーセとはそうではない。彼はわたしの全家を通じて忠実な者。
12:8 彼とは、わたしは口と口で語り、明らかに語って、謎では話さない。彼は【主】の姿を仰ぎ見ている。なぜあなたがたは、わたしのしもべ、モーセを恐れず、非難するのか。」
12:9 【主】の怒りが彼らに向かって燃え上がり、主は去って行かれた。

前回は、全てのクリスチャンは神様の声を聞けますよ。そして、それを人々に伝える使命を帯びていますよという話をしました。
長老たちが預言をしたけれど、それは続かなかったし、ヨシュアのように将来リーダーになるような人でさえ、モーセ以外の人が神さまの声を取り次ぐことを否定しました。
私たちの中には、神さまではなく人を代表として立たせて、その人にすべてを任せてしまいたいという思いがあるようです。
でも神さまは、私たち全ての信仰者が直接神さまとの関係を結び、神さまの声を聞き、神さまの言葉を取り次ぐことを願っているというのが前回の話でしたね。

今日のところは、それとは矛盾するのではないかという印象を抱きやすい部分です。
民数記12章を読み解きながら、神さまの心を探り、理解していきましょう。

① ミリアムとアロンの反乱

さて、今日の箇所ではモーセの姉と兄であるミリアムとアロンが登場し、このように主張します。

12:2 彼らは言った。「【主】はただモーセとだけ話されたのか。われわれとも話されたのではないか。」【主】はこれを聞かれた。

「モーセだけが特別扱いされるのはおかしい! 自分たちだって神さまの声を聞いている」と主張したのです。
この主張は、前回の話と矛盾していないように感じます。
でも、神さまはそのことで二人を叱責し、モーセが特別だということを告げます。

12:6 主は言われた。「聞け、わたしのことばを。もし、あなたがたの間に預言者がいるなら、【主】であるわたしは、幻の中でその人にわたし自身を知らせ、夢の中でその人と語る。
12:7 だがわたしのしもべモーセとはそうではない。彼はわたしの全家を通じて忠実な者。
12:8 彼とは、わたしは口と口で語り、明らかに語って、謎では話さない。彼は【主】の姿を仰ぎ見ている。なぜあなたがたは、わたしのしもべ、モーセを恐れず、非難するのか。」
12:9 【主】の怒りが彼らに向かって燃え上がり、主は去って行かれた。

これを読むと、やはりモーセのように神さまに選ばれた人がいて、特別に立たされるべきなのだと思う方もいるかもしれません。
でも、ミリアムとアロンは神様の声を聞けていなかったのではありません。
それとは別のところに問題がありました。
そしてそれゆえに、傲慢さを叱られることになったのです。

② ミリアムとアロンの問題

彼らの問題は、第一にこれが嫉妬から来たものだったということです。
「モーセばかりが特別扱いされてずるい。」
そういう思いによって行動する限り、神さまの器になることはできないということです。

第二に、それは「自分が上に立ちたい」という思いから来たものだったからです。
嫉妬もそうですが、これは人々よりも自分が優先になっている状態です。
このような思いでリーダーシップを取ると、人を支配するようになってしまいます。

第三に、彼らには大切な要素が欠けていたからです。
その要素を、モーセは持っていました。

12:3 モーセという人は、地の上のだれにもまさって柔和であった。

「柔和であること」こそ、神さまが彼らに求めていたことでした。
ここにある「柔和」とは、「謙遜な人」とか、「優しい人」という意味を表す言葉でもあります。
訳によっては「謙遜であった」となっている方もいらっしゃると思います。
柔和さとは、人の上に立とうとせず、自分のためではなく他者のために行動できる優しさのことです。

つまり、この箇所のポイントは、モーセが特別だったということよりも、ミリアムとアロンに問題があったということです。
彼らの問題とは、人々から敬われているモーセに嫉妬し、自分たちもその立場を手にして、人々を支配しようとしていたという所でした。
私たちも、そのような人たちをリーダーとして立てるべきではありません。

③ 柔和な人となる

柔和さに関しては、聖書の他のところでもたくさん語られています。

マタイ 5:5 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。

第一ペテロ 3:4 むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人を飾りとしなさい。それこそ、神の御前で価値あるものです。

このような柔和さを持った人のお手本は、もちろんイエスさまです。
イエスさまは、「馬ではなくろばの背に乗って来る柔和な王」とも呼ばれていますね。
穏やかさと心優しさを兼ね備えているということもありますが、その中心にあるのは自分のためではなく相手のために行動し、人に仕えるということです。
だからそれは、自分が好かれるために優しい人とも大きく違います。
イエスさまも、罪は罪として指摘し、時には必要に応じて、厳しく対応しましたね。

このような性質は、私たちが元から備えているようなものではありません。
これは、聖霊の働きがあって、霊的な成熟によって身についていくものなのです。
モーセだって、若いころは感情的になって人を殺してしまうような人でした。
そんなモーセが変えられて、柔和な人となったのです。

どうすればそうなれるでしょう?
それは、私たちがもっともっと神さまと親密になることです。
モーセのように、口と口で語り、顔と顔を合わせて語り合うことを通して、私たちは変えられていくのです。
祈りを通して、また聖書を読むことを通して、神さまとたくさん語り合ってください。
自分を偽ることなく本心で神さまの前に出て、本音で語り合うことが大切です。
そうして神さまの愛に触れることを通して、私たちはより柔和に、謙遜に、心優しく変えられ、神さまの器として整えられていくのです。