民数記16:1-11(民数記16:1-50) 民数記12『コラの反乱と裁き』2026/03/22 けんたろ

民数記16:1-11(民数記16:1-50)
16:1 レビの子であるケハテの子イツハルの子コラは、ルベンの子孫であるエリアブの子ダタンとアビラム、およびペレテの子オンと共謀して、
16:2 モーセに立ち向かった。イスラエルの子らで、会衆の上に立つ族長たち、会合から召し出された名のある者たち二百五十人も、彼らと一緒であった。
16:3 彼らはモーセとアロンに逆らって結集し、二人に言った。「あなたがたは分を超えている。全会衆残らず聖なる者であって、【主】がそのうちにおられるのに、なぜ、あなたがたは【主】の集会の上に立つのか。」
16:4 モーセはこれを聞いてひれ伏した。
16:5 それから、コラとそのすべての仲間とに告げた。「明日の朝、【主】は、だれがご自分に属する者か、だれが聖なる者かを示し、その人をご自分に近寄せられる。主は、ご自分が選ぶ者をご自分に近寄せられるのだ。
16:6 こうしなさい。コラとそのすべての仲間よ。あなたがたは火皿を取り、
16:7 明日、【主】の前でその中に火を入れ、その上に香を盛りなさい。【主】がお選びになるその人が、聖なる者である。レビの子たちよ、あなたがたが分を超えているのだ。」
16:8 モーセはコラに言った。「レビの子たちよ、よく聞きなさい。
16:9 あなたがたは、何か不足があるのか。イスラエルの神が、あなたがたをイスラエルの会衆から分けて、【主】の幕屋の奉仕をするように、また会衆の前に立って彼らに仕えるように、ご自分に近寄せてくださったのだ。
16:10 こうしてあなたを、そして、あなたの同族であるレビ族をみな、あなたと一緒に近寄せてくださったのだ。それなのに、あなたがたは祭司の職まで要求するのか。
16:11 事実、一つになって【主】に逆らっているのは、あなたとあなたの仲間全員だ。アロンが何だからといって、彼に対して不平を言うのか。」

神さまの任命によって、約束の地カナンに偵察隊が送り出されました。
そこは大きな城壁があり、巨人のように強そうな人たちがいる地でしたが、神さまの約束の通り、乳と蜜が流れるような豊かな土地でした。
帰ってきた偵察隊の中で、ヨシュアとカレブは、これが神さまの約束通りであり、すぐにでもその地に入って行こうと言いました。
一方で、10人の偵察隊は城壁と巨人に恐れをなし、彼らがおかれた状況を嘆きました。
その報告を聞いたイスラエルの民は、ヨシュアとカレブではなく、他の10人の言葉に耳を貸し、カナンの地に入って殺されるくらいならエジプトに帰ろうと主張し、その準備を始めました。
それによって、神さまを信頼せず、むしろ背こうとした人々は、みんな死んでしまうまで40年の間荒野をさ迷うことになったという話でした。
今日はその続きですが、状況はますます悪くなっていきます。

① コラたちの反乱

レビ族のコラ、ルベン族のダタンとアビラム、そして250人の会衆の指導者たちが、モーセとアロンの前に集まり、反乱が起こしました。
彼らの主張はこうです。

16:3 彼らはモーセとアロンに逆らって結集し、二人に言った。「あなたがたは分を超えている。全会衆残らず聖なる者であって、【主】がそのうちにおられるのに、なぜ、あなたがたは【主】の集会の上に立つのか。」

アロンとミリアムがモーセに背いたときの主張と少し似ていますね。
しかし、これに対する神さまの裁きはとても厳しいものでした。
地が裂けてコラたちを飲み込み、火が下って250人の指導者たちを焼き尽くしました。
そして、そのことに不平を漏らした人々もまた、次々に死んでいき、この出来事の中で死んだ人々は14,700人にのぼったと聖書には書かれています。

さて、この出来事を読んで神さまは暴君のようで、あまりにも乱暴だと思う方たちもいると思います。
神さまは、どうしてこのような厳しい裁きを彼らの上に下したのでしょうか?

② 神さまの裁きの理由

そもそも、彼らの主張はモーセだけが聖いのではなく、我々だって指導者になれるはずだということでした。
一見これは、私たちの平等性を訴える正しい価値観のように見えます。

でも、問題はもっと本質的なところにあります。
それは、彼らが神さまに聞き従うどころか、神さまに背く人々だったということです。
しっかりした信仰を持ち、神さまに忠実な人々の間に上下関係はありません。
役割の違いはあっても、それぞれが神さまに導かれて、群れ全体が機能していくと言うことはあるでしょう。
しかし、「私は神さまなんて信じないけど、教会の役員になる権利はあるはずだ」ということになってくるとどうでしょう?
教会が、無神論の人たちや他の宗教の人たちによって導かれていくとしたら、それはもはや教会とは呼べないのではないでしょうか。
それは平等かどうかという話ではなく、教会とは何かという話なのです。

それと同じように、ここではイスラエルとは何かということが問われる部分です。
神さまが求めるイスラエルの姿とは、神さまに忠実に生きる人々の群れであり、神の国そのものです。
彼らのただなかに神さまが住まわれる、いわば神の家と言っても良い存在でした。
そんな彼らが起こした反乱は、神さまを除外した平等を主張するものであり、神さまの導びきに背き、神さまご自身に背く働きに他なりません。
そして何よりも問題だったのは、彼らが人々を扇動し、多くのイスラエルが彼らに従う可能性があったということです。

そうなれば、神さまはイスラエル全体を裁かなければなりません。
モーセの執り成しによって一つの大きな裁きを回避したばかりだというのに、イスラエルはまたもや存亡の危機に陥っていたのです。
それを回避するためにも、イスラエルを扇動しようとするコラたちリーダーは滅ぼされなければなりませんでした。
そこにあった動機は、彼らを滅ぼすという怒り以上に、他のイスラエルを守ろうとする愛にあったのではないかと思います。

③ 私たちはどちらの側に立つか

私たちはどちらの側に立つ者となるでしょうか?
神さまの秩序を拒む生き方でしょうか?
それとも、神さまの前にへりくだる生き方でしょうか?

こうして並べてみると、「神さまの前にへりくだることだ」と思うものだとは思いますが、私たちは案外神さまよりも自分の思う正しさを優先にしてしまうこともあります。
今回のコラたちの主張である「平等」も、正しいことのようで神さまよりみ優先するなら神さまの御心からは離れたものになります。
「愛すること」に関しても同じことが言えます。
「聖書は愛しなさいと言っているじゃないか。それが悪いはずがない」と思うかもしれませんが、「愛」がいつでも正しいわけではありません。
それが神さまの秩序を損なうこともあるのです。

ヤコブ 4:4 節操のない者たち。世を愛することは神に敵対することだと分からないのですか。世の友となりたいと思う者はだれでも、自分を神の敵としているのです。

どんなことでも、神さまから来たものでないなら、それは神様に敵するものになりえます。
それがどんなに正義だと思えるものだったとしても同じです。
神の国は神を王とする王国だからです。
私たちも、自分の思う正しさに立ちたいと思うかもしれません。
神さまの導きよりも、自分の計画を優先したいと思うこともあるでしょう。
しかし、私たちはどんな時でも神さまを第一としていく必要があるのです。

私たちには、モーセ以上の執り成し手であるイエスさまが共にいますから、コラたちのように地面が割れて飲み込まれることはありません。
モーセではなく、イエスさまの執り成しがありますしね…。
だから、失敗を恐れる必要はありませんが、だからこそ自主的に、心から神の国に入って生きる人となっていきたいですね。