ローマ5:1-5 『ローマ13 苦しみを希望に変える方法』 2017/09/17 松田健太郎牧師

ローマ人への手紙5:1~5

5:1 ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。
5:2 またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。
5:3 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、
5:4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
5:5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

悩みや苦しみの事を、少し難しい言葉で患難と言います。
皆さんの中で、「患難が好きだ。患難こそが喜びだ」という方はいますか?
常識的に考えると、悩みや苦しみを喜ぶという人はいないのではないでしょうか。
しかしパウロはこの様に言っています。
「私たちは…患難さえも喜んでいます」と。

これは、パウロだけが言っていたことではありません。
イエス様も、このように言っています。

ヨハネ 16:33 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」

患難を喜ぶというのは、一体どういうことでしょうか?
普通は、患難から解放されて、祝福とか良い事があるから喜ぶわけですよね。
多くの宗教は、信じれば患難がなくなると教えていますし、それはキリスト教の中にも広がっていて、「信じればよいことばかりが起こる」と教えている繁栄の神学というものが世界中に広がっています。
でもそれは、聖書が教えていることではないのです。

それでは、聖書はどうして患難の時にも喜びなさいと教えているのでしょうか?
彼らはどうして、「患難さえも喜ぶ」などと言えたのでしょうか?
パウロはこの様に説明しています。
それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。(5:3b~4)

患難は忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性は希望生み出す。
そして練られた品性は、希望を生み出すのだとパウロは言うのです。
果たしてこれは、本当のことですか?
患難を体験すると、私たちの品性は本当に練られるのでしょうか?
患難の結果は、本当に希望となっていくのでしょうか?

本来ならば、「聖書に書いてあるのだからそう信じましょう」と言うべきところなのかもしれませんが、そう簡単に受け入られるものではありません。
なぜなら、患難が必ずしも品性を練るような結果になっていないということを、私たちは知っているからです。

両親の中も悪く、生まれ育った環境が悪かったために、子どもたちはぐれてしまいます。
学校で友人たちからイジメられ、人を恐れるようになってしまう人たちがいます。
会社での失敗が引き金になって、自らの命を絶つ人たちがいます。
ある人は、こどもを失う経験を通して信仰を失い、神様を憎むようになりました。
患難は、私たちを傷つけ、苦しめ、心を歪めてしまう力を持っている。
だから私たちは、患難が起こってほしくなくて平安無事を祈るし、「信じれば問題が起こらなくなる」という嘘にもすがりつきたくなってしまうものなのです。

だとすれば、パウロの言っていることは嘘ですか?
聖書は私たちにでたらめを教え、ムチャな事を求めているのでしょうか?
もちろん、そうではないはずです。
つまり聖書が教えているのは、患難は無条件に品性を生み出し、希望を生み出すわけではないということです。
そこには、ある条件があるのです。
そしてその条件が整うなら、私たちが持っている常識を覆して、患難は私たちの心を豊かにして品性を生み出し、それが希望をも生み出していくのだと、聖書は私たちに教えているという事なのです。

では、その条件とは何でしょうか?
『患難は品性を生み出し、品性は希望を生み出す」と言ったパウロがどのような状態にあったかを知ることが大きなヒントになります。
今日の聖書個所を、最初からもう一度見てみましょう。

5:1 ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。
5:2 またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。

1節の「神様との平和」、そして2節の「恵みによる救い」が表しているのは、信仰であり、神様との関係です。
これは、ここ何週間か、ローマ人への手紙を通して学んできたことでしたね。
神様を信頼し、神様との関係を深めながらその中に生きることこそ、まさに患難が希望へと繋がるための条件なのです。

悩みや苦しみを通して、私たちは忍耐する事を学びます。
忍耐するとはどういうことでしょう?
忍耐とがまんは一緒ではありませんよね。
がまんはただ、今の苦しい状況を耐えるだけです。
しかし忍耐とは、その先に素晴らしいことが起こることを期待して待つということです。

私たちは神様を愛し、信頼します。
だからこそ、今が苦しい状況だったしても、神様はその先にきっと素晴らしいものをもたらして下さることを期待して、待つことができるようになるわけです。

このようにして、患難は私たちに忍耐をもたらします。
そして、私たちが神様を信頼して患難の中で希望を持って待ち望むなら、その体験は私たちの内に品性を生み出すのだとパウロは言っているのです。

では、品性とは何でしょう?
これは、金属を精錬するとか、鍛錬されたものという意味の言葉が使われています。
これはつまり、神様とともに歩み、与えられた試練を乗り越えていく中で人格が練られていくという事を表しているわけです。
その体験を通して、私たちの中には、愛、喜び、平安というような御霊の実が実り、私たちは今までになかった新しい性質を持つようになるのです。

聖書に出てくる多くの人物が、そのような患難を体験し、その試練を通して練られ、変えられていくことを経験しました。
神様はどうして、目的地をアブラハムに伝えなかったと思いますか?
神様はどうして、すぐにイサクを与えなかったのでしょうか?
神様はどうして、イサクを捧げよとアブラハムに命じたのでしょうか?
イスラエルはどうして奴隷の民となり、エジプトから解放されるという経験を知る必要があったのでしょうか?
彼らはなぜ、40年もの間荒野をさまよう必要があったのでしょうか?
悪魔がヨブに対して酷いことをするのを、神様が許したのはなぜでしょうか?

私たちが体験する苦難の多くは、必ずしも神様が起こしているわけではありません。
私たち自身や他の誰かの罪によって起こっている問題かもしれません。
あるいは、私たちは罪によって呪われた世界に生きているわけですから、そのために起こる病気や災害という問題にも直面します。
しかし神様は、私たちが患難を通して痛み、苦しい体験をする事を許されている。

このような患難が、私たちの心を傷つけ、それによって私たちはますますひねくれてしまったり、神様からますます離れ、絶望の淵に落ちてしまうこともあります。
でも、私たちが神様を信頼し、神様に留まり続け、神様とともにこの問題に向かっていくならば、この同じ体験を通して、私たちは成長し、成熟し、人格が練られ、品性が生み出されていく。
そしてそれは、私たちに希望をもたらすのです。
どの様な希望でしょうか?
パウロがこの手紙のもう少し後で、はっきりと告白しています。

ローマ 8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

それは、神様が全ての事を益といてくださるという希望です。
そしてこの希望は、失望に終わる事がない! と、パウロは宣言しています。
「神様がいるから大丈夫だ」という希望は私たちの内に留まり、その希望は私たちがどんな困難な状況の中にあっても、揺らぐことのない平安を与えてくれるのです。

今皆さんの中で、患難の中にある方はどれくらいいるでしょう?
少なくとも、私たちの教会はいま、大きな患難の中にあると僕は感じています。
確かにこの患難は、私たちを打ちのめし、私たちの人生をめちゃくちゃにしてしまう力を持っているかもしれません。
でも私たちは今日、そうはならないための秘訣を学びました。
ならば私たちが進むべき方向は、ひとつでしょう?

最後に、ペテロとヤコブからの言葉を一緒に読んで、メッセージを締めくくりたいと思います。

Iペテロ 1:7 あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。

ヤコブ 1:12 試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。

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