ローマ5:6-11 『ローマ14 神様の法則とは?』 2017/09/24 小林拓馬

ローマ5:6~11
5:6 私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。
5:7 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。
5:8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
5:9 ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
5:10 もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。
5:11 そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。

【FOOK「サカサマのパテマ」】

・この世の中には、たくさんの法則があります。学校で習いますよね。オームの法則、振り子の法則、質量保存の法則。ニュートンという人は、万有引力の法則を発見しました。

・その引力、重力の法則に関する、興味深い映画があります。「サカサマののパテマ」。ご存知でしょうか?

ビデオ見る

・どうでしょう?主人公の男の子が、ある日、自分たちと真逆の重力を持った女の子と出会うお話です。女の子は、ほおっておくと「空に落ちてしまう」という、不思議な設定の作品です。ぜひツタヤでDVD借りてみて見て下さい。

・男の子にとっては、女の子のパテマが「サカサマ」でした。しかし、女の子の住む世界に行くとどうでしょう?自分の方が「サカサマ」ではないでしょうか。

★私達も、実は、神様から見たら、「サカサマ」なのではないでしょうか?

★私達、人間の法則、人間の常識は、もしかしたら、神様の法則、神様の常識からすると、「サカサマ」なのかもしれません。

・では、「神様の法」とは一体何なのか。今日の箇所から読み取っていきましょう。

【神様の法則1:「弱く不信仰な者のために死んでくださる」】

・ローマの5章6節を読みましょう。

5:6私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。

▼1-1「弱さを認める」

・先週、私達は、試練の時こそ神の愛が注がれる。それによって、神様と私達の関係は深まっていくんだ、ということを学びました。

・私達人間は、弱い存在です。そう言うと、「ああ、本当にそうだな」と思う人もいれば、「いや、俺はそんなに弱くないぞ」と思う人もいるかもしれません。僕はどちらかというと、「弱くないぞ」と思う方ですね。

・私達、人間の基準では、弱いことは悪いことです。人は、できるだけ自分の弱さを隠そうとします。他人の前では、強くあろうとします。

・ホクの実家には、2人の4歳の里子がいます。めちゃめちゃ可愛いです。どんな間違いをしても、ゆるせちゃいます。でも、教えたわけじゃないのに、例えば、食べ物を落としちゃうとか、物を壊しちゃったりした時に、「自分は悪くないよ」というスタンスをとるのです。「自分に過失がある」ということを認めるのは、人間には難しいことです。

・よく、「私はクリスチャンです」というと、「神を信じるなんて、心が弱いからだ」と言

われることがあります。「俺はそんなに弱くないから、そういう頼るものがなくてもいいかな」といいます。

・しかし、それは違います。神を信じるには、まず、「自分が不完全な存在」であることを認めないといけません。

・完全な神が完全な世界を作ったのに、人間はデザインされたとおりに生きることを選択できなかった。自分は不完全で、弱い存在だということを認めなければ、そもそもイエス様を信じる土台に立てません。

・実は、「自分が弱い」ことを認めるのは、とても勇気が必要なことなのです。そして、とても意味のあることです。

・さっきも言いましたが、人間の法則では、「弱い」ことは、悪いことです。

★しかし、神様の法則は違います。

・「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。』といわれたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」(第二コリント12:9)

・神様の法則では、弱い時こそ強いのです。

▼1-2「弱さへの神のリアクション」

・私達は、「弱い人」を見たとき、どういう態度をとるでしょうか?

・例えば、小さい子供、自分の言うことを聞かない人、自分にとってめんどくさい人、仕事ができない人・・・

・たいていは、そういう人を無視します。なるべく関わらないようにします。あるいは、非難したり、悪口を言ったりしてしまいます。人情深い人なら、はじめは助けようとか、力になろうとしてあげるかもしれません。

・しかし、その善意を踏みにじってきたり、攻撃してきたり、拒否してきたり、何度注意しても変わらなかったりしたらどうでしょう?多くの人は、あきらめたり、さじを投げたり、怒りの感情に変わったりして、「あの人はああいう人だから」と、関わるのをやめてしまいます。

★しかし、神様の法則は違います。

・神様のリアクションは、こうでした。自分を信じない人間と、関わろうとしてくださったのです。愛そうとしてくださったのです。

・私達は、「弱く」「不敬虔」な物でした。「不敬虔」は、英語では「ungodly」と約されています。元の単語の意味は、「不信仰」とか、「神様を拒絶する、反逆する」といった意味です。

・私達は、弱くて、神様を信じない、神様に逆らう物です。

・そんな私達を、神様は無視せず、ひとり子であるイエス様の死をもってもなお、愛そう

としてくださいました。

【神の法則2:「“まだ”罪人でも死んでくださる」】

・ローマ5章7節、8節を読みましょう。

5:7正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。

5:8しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

・7節は人間の法則が書いてあります。人間の法則では、他人のために死ぬことは愚かで非効率です。死ぬことはおろか、自分の財産を分けたり、時間を人のために使うということも、最近では愚かで非効率な行いだと思われています。

・しかし、神様の法則ではそうではありません。8節を見て下さい。

・8節の最初は、「しかし」です。新約聖書にはよく出てくるこの「しかし」は、前の前提を覆す言葉です。日本の高校で現代文の授業なんか得意だった人は、現代文のようにこの「しかし」に印をつけながら聖書を読むと面白いですよ。

・「しかし」から始まって、人間の法則とは違う、神様の法則の説明が始まります。

★神様の法則はこうです。「私達が、“まだ”罪人であったとき、キリストが私達のために死んでくださった」。これが神の法則です。

★「私達が“まだ”罪人であったとき」。「まだ」罪人だったとき。

・僕達が、いい人だから、信心深いから、敬虔だから、奉仕を一生懸命やるから、真面目に生きているから、善行を積んだから、神様が愛してくれる、救われるのではありません。

・よく考えてください。イエス様は2000年前に十字架で死んでいます。

★私達が生まれる、はるか前に、イエス様は既に僕らのために死んでくださったのです!

・神様の愛は、先払いなのです!これが、神様の愛なのです!

・実は、このローマ5章8節は、僕がイエス様を信じるきっかけとなった箇所でした。僕は、小学校3年生の頃から実は親の影響で1年間エホバの礼拝に通っていました。一番最初に読んだ聖書は、エホバの「新世界訳」でした。しかし、小学校4年生の時に、母親がエホバを脱出し、いわゆる普通のプロテスタントの教会へ行きはじめました。でも、僕にとって、神様の存在はなんとなく「いたらいいな」くらいで、全く救いの確信も、イエス様の愛もわかっていませんでした。むしろ、エホバの頃の影響で、どこか自分はいい人でいなければいけない。自分の犯した罪を、全て神様は閻魔帳につけていて、死んだ後に全て責められる。良い行いが少し多ければ、なんとか天国に行ける。そんなイメージでした。恐れながら生きていました。

・しかし、16歳のときに、とあるキャンプに参加しているときに、ふと読んだこの箇所で、目からウロコが落ちました。「まだ罪人であったとき」。「まだ」。この「まだ」という

単語が実際、このくらいに見えました(スライド)。実は当時、英語で聖書を読んでいたので、このフレーズが心に焼き付いています。「While we were still sinners, Christ died for us」。

・この箇所を読んだ時、自分の行いは全く関係なしに、イエス様が死んでくださったことが分かりました。だって、もう生まれる前に死んでくださってるんですから!2000年前に僕の罪の代価は先払いされていたのです!初めて、今まで一度も理解できなかった福音を理解することができたのです。

・今までは、「良い人が報われる」という人間の法則で生きていました。「正しい人がまだ罪人の自分のために死なれた」ことが分かった時、神様の法則が理解できました。

・実は、日本にもこの「神様の法則」が隠された文章があります。この言葉です。

★「善人なおもって往生を遂ぐ。いわんや悪人をや」

・これは、浄土真宗の「歎異抄」(たんにしょう)という本の一説です。

・教会のメッセージで浄土真宗の言葉を出す。ちょっと人間の法則を無視してみました(笑)。

・これは、ちょっとむずかしいですが、簡単に言えば、「善人でさえ幸せになれるのだから、悪人はなおさら幸せになれる」という意味です。

・これ、おかしくないですか?

・普通は逆ですよね。「悪人でさえ幸せになれるのだから、善人はなおさら幸せになれる」というのが、普通、私達が納得いく、人間の法則です。

・しかし、神様の法則はそうではありません。

・神様は、「悪人」、「罪人」の状態の私達と関わろうとしてくださいます。「まだ」罪人の状態でも死んでくださいます。愛そうとしてくださいます。

・けれども、完全な神様は、罪をそのままにしておくことはできません。このままでは、私達との関係を持つことができないのです。

・その矛盾を解決する方法が、イエス様の十字架の犠牲でした。イエス様は、私達が、『まだ』罪人の状態であるにも関わらず、死んでくださったのです。

・これが神の愛の法則です。これだけ大きい愛を、神様は示してくださったのです。

・聖書の別の箇所にもこう書いてあります。イエス様の言葉です。

・「『ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは500デナリ、ほかのひとりは50デナリ借りていた。彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょう』」シモンが、『余計に赦してもらったほうだと思います』と答えると、イエスは『あなたの判断は当たっています」と言われた。」

「だから、わたしは『この女の多くの罪は赦されている』と言います。それは彼女がよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません」

(ルカの福音書7章41~43、47節)

★神様の法則は、「善人」だから救われるのではありません。「善人なおもって往生を遂ぐ。いわんや悪人をや」。まだ罪人の状態の私達のために、はるか前からひとり子のイエス様を死なせ、そうまでして私達に愛を示してくださったのです。これが神様の法則です。

【神様の法則3:「敵である私達を愛してくださる」】

・最後のポイントです。ローマ5章、9節から11節を読みましょう。

5:9ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。

5:10もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。

5:11そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです

・神様はこの世界を完全な世界として造りました。しかし、私達人間は、神様のデザイン通りに生きることができませんでした。それによってこの世界は不完全なものになってしまいました。完全な神様は、罪がある人間と交わることができません。そして、完全な神は罪に対して、ものすごい怒りを持っています。

・しかし、イエス様の十字架の犠牲、そして復活によって、私達はもはや「罪人」ではなく、「義」とされました。それだけでなく、本来受けるべき「神の怒り」も免除されています。

・私達は、本来、神様の「敵」でした。

・人間の法則では、自分の敵と仲良くなるなど、とんでもないことです。なぜなら、「敵」は、自分に害を与える存在だからです。ましてや、その「敵」のために命を投げ出すなど、もってのほかです。

★しかし、神様の法則は違います。敵である私達のために、命を投げ出してもなお、和解してくださろうとしたのです。

・本来、私達は神様の「敵」であったのに、イエス様が命を投げ出してくださったおかげで、神様と私達との間の壁は取り払われました。それによって、私達は神様との関係を回復できたのです。それが救いです。

★しかも、11節を見て下さい。私達は、ただ単に神様と和解させてもらっただけではなく、神様との関係を「大いに喜ぶ」ことができるのです。

・これってすごいことじゃないですか?!私達の王である神様が、反逆者の私達を、命をかけて愛してくださっただけでなく、反逆者の私達と和解してくださったのです!

・前回学んだ3節の頭は、「そればかりでなく」と始まり、「患難さえも喜んでいます」とあります。新共同訳では、「患難さえも誇りとしています」とあります。

・この「そればかりでなく」は、11節の頭にもあります。つまり、11節は、3節と並列の関係にあります。

・11節は、「キリストによって、神を大いに喜ぶことができる」。新共同訳では、ここも「神を誇りとしている」となります。

・神様の恵みによって、赦されている。神様に似たものに変えられ続ける。だからこそ、困難も誇ることができます。そして、神様との関係を喜び、誇ることができるのです。

★私達は、神様との関係を、「大いに喜んで」いるでしょうか。神様を日々味わっていますか?祈りで会話していますか?みことばから神様の声を聞こうとしていますか?

・救いは行いではありません。けれども、愛する人とコミュニケーションを密にとろうと思うのは、当然ではありませんか。

★自分から、意図的に神様との関係を喜んでいるでしょうか。意図的に、時間を作っていますか?意図的に、神様とのコミュニケーションを図っているでしょうか。

・また、神様と和解させてもらっただけで立ち止まるべきでないと思います。

★私達は、自分の「敵」と関係を持とうとしているでしょうか?それとも、なるべく関係を持つことを避けようとはしていないでしょうか?

・人間の法則では、自分の「敵」、すなわち自分に害を与える人、自分にとってめんどくさい人、自分にとって居心地の悪い人、付き合うメリットがない人に時間や労力を割くことは、非効率で愚かな行為です。

・人間の法則をうまく解説した一冊の本があります。リチャード・ドーキンスの「利己的な遺伝子」です。

・この本の作者のリチャード・ドーキンスは、クリスチャンホームに生まれましたが、その反動で、かなり激しい無神論者になりました。彼は、なんとかイエス様を否定しようとして、この「利己的な遺伝子」を書きました。進化論の論理を解説している本です。生物の遺伝子は、自分の種を出来る限り多く残そうと自動的に遺伝子レベルでプログラムされている、という本です。

・しかし、ずーっと遺伝子の仕組みを使って、進化論を解説する本の最後の最後に、小さな小さな章があります。そこには、「ミーム」という単語を使って、人間の不思議さを書いているのです。

・ドーキンスは、「人間は、他人のために命を捨てることのできる、唯一の生物だ」と言います。彼は、それを「不可解で非効率で理解できない行為」だと言います。彼の遺伝子の理論では、考えられない行為です。

★「人間は、遺伝子に逆らう『意思』を持っている」。これがドーキンスの結論です。この「意思」をドーキンスは「ミーム」と名付けています。

・それは、きっと人間の中に、神様のエッセンスが少しでも入っているからではないでしょうか。神様は、私達を「神に似たもの」として創造されました。その一つが、この「ミーム」、「遺伝子に逆らう意思」なのではないでしょうか。

★私達は、もはや「人間の法則」では生きていません。「古い自分は死んだ」と聖書に書いてあります。

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私達をご自分と和解させ、また和解の努めを私たちに与えてくださいました」(2コリント5章17~18節)

・私達は、この世の中に生きていますが、神様が与えてくださる聖霊様の力によって、「神様の法則」で生きることができるのです。

・神様は、「敵」である私達を愛して下さいました。私達は、その愛を受けて、その愛があふれ、神様の愛で、自分の敵をも愛することができるのです。私達には「和解の努め」が委ねられています。

・イエス様の教えは、「神様の法則」で満ちています。最後に「神様の法則」に満ち満ちとした、イエス様の教えを振り返りましょう。

「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちものものだから。悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから」

「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのゆえに迫害したのです」

(マタイの福音書5章3~4、10~12節)

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