ローマ2:1-5 『ローマ5 さばく私、さばかない神』 2017/07/16 小林拓馬
ローマ2:1~5
2:1 ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行っているからです。
2:2 私たちは、そのようなことを行っている人々に下る神のさばきが正しいことを知っています。
2:3 そのようなことをしている人々をさばきながら、自分で同じことをしている人よ。あなたは、自分は神のさばきを免れるのだとでも思っているのですか。
2:4 それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。
2:5 ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現れる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。
【今までのまとめ】
▼ローマ書の読み手は誰か
・ローマ書はパウロの働きの後半に、ローマにいる信者に向けて書かれた。ローマにはユダヤ人の信者も、異邦人の信者もいた。
▼その目的は・・・
1:今までの働きや教えのまとめ
2:ユダヤ人と異邦人の一致
3:さらなる宣教の足がかり
▼前回のまとめ
前回のメッセージで、神様から離れてしまったり、神様との関係に傷がつくと、自分自身の罪深さが自分を捉えて、泥沼にハマってしまうこと。罪は自分の力では解決できないということ。そして、神との関係を回復することこそが、罪から回復することだとを学びました。
▼きょうのイントロ
・きょうから、ローマ2章に入っていきますが、ローマ書全体の中では、この部分です(チャート示す)。
・ローマの最初のテーマは「義認」ですが、まず「義認」の話の前に、自分の罪はどんなものかということで、説明している。きょうはその箇所です。
【ポイント1:さばきは神のもの】
1節:「ですから、すべて他人をさばく人よ、あなたに弁解の余地はありません
あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行っているからです」
▼今回の対象
・まず、2章は主に誰に向けて書かれているか。
・「あなたに弁解の余地はありません」とあります。「弁解の余地はありません」。見たことがありますね。そう、1章20節です。「彼らに」弁解の余地はないとありますね。
・1章は、「不義をもって真理をはばんでいる人々」。当時の未信者のギリシャ人、異邦人のことでした。前回まで学んでいた様々な罪の結果は、主に当時の異邦人の文化です。つまりは、クリスチャンではない人についての説明です。
・2章からは、対象が少し変わります。わかりにくいですが、対象が「彼ら」から「あなた」となっています。読み手のローマにいるクリスチャン、特にユダヤ人ではない異邦人クリスチャンに向けて書かれています。2章の前半は異邦人クリスチャン、2章の後半はユダヤ人クリスチャンに向けて書かれています。
▼さばきは神のもの
・被造物を見て神を認めないことに弁解の余地はないと同じレベルで、「他人をさばく」ことは弁解の余地はないと書かれています。
・「さばく」とはどういうことでしょう。
→ 裁判。正しいか悪いかを判断し、その罰を与えること。
・裁判で判決を下すのは裁判官の役割です。判決を受ける側ができる行為ではありません。
・聖書には、私たちは神様に作られた陶器だとあります。作られた陶器は、他の陶器の良し悪しを判断することはできません。その資格があるのは、陶器を作った陶器師、つまり神様のみです。
・聖書で最初に他人をさばいたのは誰でしょう?→アダムのたとえ。創世記3章11、12節。
・アダムは、エバを罪に定めたのではなく、エバを創った神様をさばいたのです。
★私達は自分の立場をはっきりさせる必要があります。すなわち、
1:神は創造主で、2:私達は被造物だ、ということです。
★この世界をさばく資格があるのは神様だけです。
【ポイント2:罪と向き合う】
2節:私たちは、そのようなことを行っている人々に下る神のさばきが正しいことを知っています。
▼心の中では神の正しさを知っている。
・2章は、信者に対しての言葉です。
・信者である私達は、心のどこかで、神が正しく、私達は正しくないと知っています。
・しかし、自分が完全でないと知りながら、他の人が完全でないと、そこに目がいき、さばいてしまうのです。
・もちろん、兄弟姉妹が神様との関係に問題を抱えているときに、見てみぬふりをせず、愛を持って指摘することは大切です。そうして、兄弟姉妹が神様との関係を回復できるよう、愛をもってサポートすることができるのです。
・しかし、「あなたはこれこれこういう問題を起こしたから、メッセージをする資格がありません」とか、「あなたはこの罪の問題を解決していないから、ミニストリーをやってはいけません」とか言うことは、明確に他の人をさばいていることになります。
・自分の胸に手をあてて考えてみて下さい。他のクリスチャンをさばいている時はないでしょうか。他の教会をさばいていることはないでしょうか。陰口たたいている時がないでしょうか。ちなみに、僕はめちゃめちゃあります(笑)
▼なぜ「さばく」こと、「罪の習慣」がやめられないのか。
・なぜ、私達は悪いと知っていながら、「さばく」行為をやめられないのでしょうか。
・もっと言えば、なぜ、知っていながら同じ罪の習慣から抜け出せないのでしょうか。私達は、だいたい同じ罪を繰り返してしまいますよね。
・1章を振り返ると、「神を知ろうとしないのが罪の根源」(1:28)だということが分かります。
・先週学んだように、神様との関係が傷つけば傷つくほど、私達は罪の泥沼にハマってしまいます。
★私は、この「罪の状態」にあることを自認しているからこそ、そのコンプレックスから他人をさばくようになると考えます。
・聖書の中で、はじめは人を裁かなかったのに、神様との関係が崩れてからさばくようになってしまった人が大勢います。その中の一人を見ましょう。誰だと思いますか? ダビデがそうです。
▼ダビデのたとえ(2サムエル12章)
・ダビデは、サウルにどれだけ迫害されても、そして殺すチャンスがあっても、「神が油をそそがれた王だから」と、神様の主権を認め、絶対に自分の手でサウルをさばくことはしませんでした。その子孫たちも丁重に扱いました。
・しかし、バテシェバと姦淫を犯し、夫のウリヤを間接的に殺してから、ダビデと神様の関係は崩れてしまいました。
・ダビデが罪を犯した後、預言者ナタンがダビデのところにきて、富んでいる人と貧しい人の話をします。それを聞いたダビデは、「そんなことをした男は死刑だ」と断言してさばきます。
・ナタンは、「王さま、それはあなたです」と指摘し、ダビデは打ちのめされます。
★ここで疑問があります。ダビデは、自分の罪に気がついていなかったのでしょうか? それとも、罪の罪悪感から、その罪から、そして神様から目を背けていたのでしょうか? 私は後者だと思います。
▼罪と神と向き合う。
・私達も、自分の罪に、「良心」によって実は気がついているのではないでしょうか。
・気がついた上で、でも直視するのが痛くて、目を背けているのではないでしょうか。知らないふりをしているのではないでしょうか。言い訳を作っているのではないでしょうか。
・「罪は悪者の心の中に語りかける。彼の目の前には、神に対する恐れがない。彼はおのれの目で自分にへつらっている。おのれの咎を見つけ出し、それを憎むことで」(詩篇36変1~2)
・自分に、へつらう、つまりウソをついて、言い訳をして、罪から目をそむけていませんか。そして、他人をさばくことで、自分はマシだと、安心してはいませんか。
★しかし、それでは罪は絶対に解決しません。クローゼットに物を投げ込めば、そのいっときは部屋はきれいになりますが、そのうち溢れて、手に負えなくなってしまいます。
★罪はどのように解決するのでしょうか。ヘブル12章には、
「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を話さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません」(ヘブル12:2~4)
と、書いてあります。
★罪を直視し、血を流すまで抵抗しましたか。でも、自分の力ではできません。イエス様に目を向けましょう。どんなに辛くても、直視しましょう。イエス様と共に歩みましょう。それが、一番の罪を解決する方法なのです。
【ポイント3:私達はゆるされ、義とされている】
3:そのようなことをしている人々をさばきながら、自分で同じことをしている人よ。あなたは、自分は神のさばきを免れるのだと思っているのですか。
4:それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。
▼さばきを免れるとは思っていない。
・3節を呼んでみて下さい。ここは、仮想の討論相手に話すような話し方で、非常にギリシャ語的な表現だそうです。
・「さばきを免れると思っているのですか」と言われて、「思ってる」という人はいないですよね。私達は、このままの状態では、ダメだということは嫌でも分かっているはずです。
・しかし、罪を直視しようとは言いましたが、自分を責める必要はないのです。
★自分を責めることこそ、自分で自分をさばくことです。私達にさばく権利がないことは、既に学びました。
★イエス様のたとえ話を思い出してください。→借金返済の話。
・私達は、イエス様によって、既にゆるされています。そして、義とされているのです。
・4節を見て下さい。悔い改めることも、イエス様に出会うことも、神様の慈愛、恵みと愛によるのです。私達は、恵みによって、既にゆるされています。ですから、自分の罪に悩む必要はありません。
★自分で自分をさばくことこそ、神様の恵みをないがしろにすることに他ならないではないですか。神様が死んでも愛してくださった自分を責めないでください。神様のゆるしに感謝して、イエス様を見続けて、歩んでいこうではないですか。
【最後に・・・】
5:ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現れる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。
・5節を読むと、「さばき」は恐ろしいもののように見えます。
・しかし、ゆるされて、義とされている私たちにとっては、神のさばきは喜びであり、恵みなのです。
(詩篇96:12-13)
「野とその中にあるものはみな、喜び勇め。そのとき、森の木々もみな、主の御前で、喜び歌おう。確かに、主は来られる。確かに、地をさばくために来られる。主は、義をもって世界をさばき、その真実をもって国々の民をさばかれる」
世の終わりに、主のさばき、正義がなされ、そこで主をお会いできる日を楽しみに、きょうも、これからも生きていこうではありませんか。