ローマ1:26-32『 ローマ4 罪を憎んで人を愛する』 2017/07/09 松田健太郎牧師
ローマ人への手紙1:26~32
1:26 こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、
1:27 同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行うようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。
1:28 また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。
1:29 彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、
1:30 そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、
1:31 わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。
1:32 彼らは、そのようなことを行えば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行っているだけでなく、それを行う者に心から同意しているのです。
ローマ人への手紙から、4回目のメッセージです。
1年くらいかけて細切れに学んでいくわけですが、元々はひとつの手紙ですから、全体像を把握しながら読み進めていく必要があります。
今日も、先週までの復習から入って行きましょうね。
ローマ人への手紙は、使徒パウロによって書かれた、まだ会った事もないローマのクリスチャンたちに向けて書かれた手紙でした。
彼が何の目的でこの手紙を書いたかと言うと、基本的な教えもまだ身につける事が出来ていないローマの教会に、福音の本質を伝えるためです。
それは、彼らが福音の理解を深める事を通して、信仰が強められるためでした。
それによって、ローマ帝国で始まっていた大きな迫害に備え、間違った教えに惑わされることなく、より多くの人々に福音が宣べ伝えられるようになる必要があったのです。
さて、私たちにはどうして福音が必要なのか、というのが先週のお話の焦点でした。
それは、神様の怒りがあるからです。
何に対する怒りか?
それは、私たちが神様との関係が壊れた罪人の状態にあるからです。
私たちが神様から離れ、祝福を失い、互いに傷つけあうようにしてしまう「罪」というものを、神様は憎んでいます。
だから神様は私たちを招き、この世界に起こる様々な出来事を通して、時には祝福を与えることによって、時には痛みによって立ち返るようにと繰り返し伝えているのです。
今日は、その続きからですね。
① 汚れに引き渡す
さて、神様は愛によって私たちを導き、私たちが神様に立ち返るようにとその道を備えて下さいました。
それによって、私たちはみんな神様に立ち返って救われたのでしょうか?
そこが問題です。
私たちは、どれだけ神様が招き続けていても神様に感謝のひとつもなく、関係を築こうとするどころか無視し、場合によっては存在すら認めようとしなかったのです。
私たちが誰かを説得しようとする時、何を言ってもやってもダメだったらどうしますか?
もう、放っておくしかないでしょう。
神様は、私たちを罪に引き渡し、その中に留めのだと、パウロは言っています。
ローマ 1:24 それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。
多くの場合、私たちは大きな勘違いをしています。
私たちは、神様が私たちから「罪」という楽しみを奪おうとしているのではないかと思っていませんか?
それは、悪魔の嘘に他なりません。
罪は、それ自体が呪いなのです。
罪の中に痛みがあり、悲しみがあり、苦しみがあり、虚しさがあります。
罪が私たちを捕らえ、自由を奪い、そして私たちを蝕んでいくのです。
神様が、私たちに痛みや苦難を通して試練を与え、導こうとしている間はいいのです。
神様は優しくて私たちを愛していますから、そのような試練は私たちを強くします。
しかし私達が罪に引き渡されてしまったら、そこにある絶望は、神様が与える試練の比ではありません。
私たちが生きるこの世界は、今そのような状態にあるのだとパウロは言っているのです。
② 罪に捉えられた人々
さて、私たちが罪に引き渡されるというのは、一体どのような状態になる事なのでしょうか?
それが今日の聖書個所なのです。
1:26 こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、(性的不品行)
1:27 同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行うようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。(性的倒錯)
1:28 また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。
1:29 彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、
1:30 そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、
1:31 わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。
この様に罪に捕らわれた人たちの行きつく先は、滅びです。
神様の裁きを待つまでもなく、人は互いに滅ぼし合ってしまうかも知れません。
これが、私たちが生きるこの世界の現状なのです。
さて、皆さんはこの罪のリストを見て、どのように思われたでしょうか?
「自分は大丈夫。」と思って、ホッとしたでしょうか?
あるいは、「これはあの人が犯している罪だ。」と他の人達の罪を考えたでしょうか?
でも、ここに取り上げられていることなんて、私たちの罪のほんの一部に過ぎません。
もしもすべての罪をリストアップするなら、それは大変な量になってしまうでしょう。
例えば皆さんは、いつも喜んでいるでしょうか?
不機嫌になって、つぶやいたりしていませんか?
では、いつでも神の国とその義とを第一にしているでしょうか?
良きサマリア人のように敵を愛し、いつも祈っていますか?
できていないなら、私達はやっぱり罪を犯しているし、罪に捕らわれているのです。
「いや、自分の罪は他の人の罪ほど酷くない」と思っていますか?
それは、私たちが自分の正義を基準にして他の人たちを計ろうとしているだけの話です。
あるいは、私たちが他の人たちよりもほんのちょっと恵まれた環境にいたので、酷い結果になっていないというだけのことです。
私たちの罪深さ、その罪がもたらすことの悲劇には、何の変りもありません。
だからパウロは、次の所で「他人を裁いてはいけない」という話をしているんですね。
このことについては、来週拓馬くんがメッセージをしてくれると思うので、それを楽しみに待ちたいと思います。
③ 第三の道
さて、ここで大切なのは、パウロがしているこの話は、「これをやったから罪」という「行いの話」ではないということです。
行いに焦点を当てると何が問題なのでしょう?
それは、私たちが罪を犯さない努力をすることによって、自分は聖い人間なのだと思い込んでしまうことです。
罪を犯さなければ犯さないほど、また乗り越えた罪が多いほど、自分は聖く、正しい人間だと勘違いしてしまうのです。
それでは、私たちは自分の努力によって聖い人間になり、神様に認められ、愛され、救われるという話になってしまいますね。
それは、行いによって自分で自分を正しいとすることであって、福音とはかけ離れたものなのです。
そう言うと、今度はこの様な反応をする人がいます。
「あ~、そうですよね~。私たちは罪人だから、罪を犯すのは仕方がないことなんですよね。だから自分の弱さを認めて、互いに赦しあう事が大切ですね~。」
違います。
そういう話でもありません。
神様は、私たちが罪を犯しても仕方がないとか、罪人のままでいいというなどとは、まったく思っていないのです。
罪の問題と向き合う時ほとんどの人たちが、罪を自分で解決しようとするか、仕方がないと諦めるかのどちらかの考え方をしてしまう傾向があるのですが、どちらも間違えです。
福音は私たちに、そのどちらでもない第三の道を与えてくれているのです。
それはどのような道でしょうか?
問題の本質は、私たちが罪を犯すか犯さないかにあるのではないという話をしました。
罪の本質的な問題は、私たちと神様の関係が壊れてしまっていることです。
そう考えてみると、そもそもどれだけ悪い行いを止めたとしても、また良い行いをたくさんしたとしても、罪がなくなるわけではないということがわかりますよね。
そして私たちは、神様との関係に問題があるから様々な罪を犯すのであり、だから何にも増して、神様との関係を回復する必要があるのです。
神様との関係が回復することによって、私たちは神様の御心をより明確に知ることができるようになります。
私たちがそれに従うことによって、私たちはより罪による痛みを回避する事ができるようになるでしょう。
だから私たちの焦点は、いつでも、どんな時でも神様との関係にある必要があるのです。
根本的に罪人となってしまっている私たちは、それでもなお神様に従うことに失敗し、あるいは誘惑に負け、罪の行いをしてしまいます。
私達に罪の赦しが約束され、保証されているということは、大きな慰めであり、希望を与えてくれますね。
その神様の愛をいっぱいに受け取って、ますます神様との関係を深めていこうではありませんか。