ローマ1:1-7 『ローマ1 キリストのしもべから、神に愛されている人々へ』 2017/06/17 松田健太郎牧師
ローマ人への手紙1:1~7
1:1 神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ、
1:2 ──この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので、
1:3 御子に関することです。御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、
1:4 聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。
1:5 このキリストによって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためです。
1:6 あなたがたも、それらの人々の中にあって、イエス・キリストによって召された人々です、──このパウロから、
1:7 ローマにいるすべての、神に愛されている人々、召された聖徒たちへ。私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があなたがたの上にありますように。
今日からいよいよ、ローマ人への手紙のシリーズが始まりました。
ローマ人への手紙は、パウロが書いたものです。
パウロの手紙の中では一番に載っているので、最初に書かれたような印象があるかもしれませんが、実はパウロの働きの中ではかなり後半に書かれた手紙です。
私たちの感覚だと、書かれた順に時系列で掲載したいような気がしますが、ユダヤ人の文化では、長い順に載せていく傾向があるそうです。
ローマ人への手紙は、彼が書いた手紙の中で一番長いから、最初に置かれているんですね。
さて、ローマ人への手紙には、他の手紙とは少し違う所があります。
パウロが書いた手紙のほとんどは、彼が開拓した教会の人々や、彼が知っている人たちに宛てて書いたものです。
しかしこの手紙に関しては、そうではありません。
パウロは、ローマの教会に行ったこともなければ、この人たちと一度も会ったことがなかったのです。
パウロはローマ市民でもあったので、ローマに住んでいたことはありました。
それがどれくらい前のことだったのかはわかりませんが、パウロがクリスチャンになってからは、ローマにはなかなか行くことができないでいたのです。
さて、異邦人への伝道者であるパウロが開拓したのではないのだとしたら、ローマの教会はいったい誰が福音を伝えて、教会を生み出したのでしょうか?
はっきりとしたことは、書かれていないのでわかりません。
でも考えられるのは、ペンテコステの時に救いを受け入れた3000人の人たちの中にローマ人もいて、彼らがローマに帰ってから生み出したものではないかということです。
いずれにしても、彼らは迫害の中心となるローマで、着実に増え続けていました。
しかし、ちゃんとした指導者がいなかったため、異端や教えの波に揺らされながら苦しんでいたのです。
そんなローマのクリスチャンたちに宛てて書かれたのが、このローマ人への手紙です。
この手紙を通して私たちは、福音とはどのようなものなのかということを学び、あるいは再確認する事ができます。
これから一年くらいの間、このローマ人への手紙を通して、福音とはどのようなものなのか、もう一度しっかりと学んでいきたいと思います。
それでは、始めていきましょう。
① キリスト・イエスのしもべ
まずパウロは、自分の自己紹介からこの手紙を始めています。
1:1 神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ、
この文章は日本語としてわかりやすく翻訳しているので、こういう並びの言葉になっていますが、原文では少し違った書き方がされています。
直訳に近い形にすると、こうなります。
『キリスト・イエスのしもべパウロ。使徒として召され、神の福音のために選別された』
この原文からわかることは、パウロが自分を表現する時に最も大きなポイントは、彼が『イエス様のしもべ』であるということです。
この『しもべ』という言葉は、『奴隷』という意味の言葉でもあります。
当時のローマ帝国には『奴隷』が普通にいる時代でしたから、とても強い意味として人々の心に届いたことでしょう。
そしてこの言葉は、ふたつの意味を含んだ言葉でもありました。
第一に、自分の所有者はイエス・キリストだということです。
以前のパウロはローマ市民でしたから、奴隷ではなく自由人だったはずです。
でも実は、神様から離れた状態、罪の奴隷であり、宗教の奴隷でした。
しかし十字架で流された血によって買い取られ、今はイエス様のしもべとなったのです。
第二に、自分はイエス・キリストに従う者となったのだということです。
普通、奴隷といえば主人に対して絶対服従を強制された存在です。
しかし、イエス様のしもべはそうではありません。
私たちは奴隷的な服従によって従うのではなく、喜びをもって率先的にイエス様に従う者となります。
それは、私たちの主イエス様がとても優しく、愛にあふれた方だからです。
イエス様を主とする人生は、自分自身を含めた誰に従う人生よりもより楽しく、喜びにあふれ、幸せなのです。
そんな、キリストのしもべであるパウロが、使徒に召された。
そして、神の福音のために選ばれたのだ。
パウロはそのように、自分自身を表して、ローマの人たちに挨拶しているのです。
② 神の福音
では、彼が宣べ伝える福音とはどのようなものなのか、パウロは次に福音について書いています。
1:2 ──この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので、
1:3 御子に関することです。御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、
1:4 聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。
福音とは、旧約聖書の時代から預言者たちによって約束されていた、救い主イエス様のことです。
イエス様は、人間的にはダビデの子孫として生まれました。
これも、救い主のしるしとして、旧約聖書に約束されていたことです。
しかし、さらに霊的な観点で見るならば、三位一体の神の御子としてこの世の初めから存在する方、それがイエス・キリストです。
その御子であるイエス様を、私たちは十字架にかけて殺してしまいました。
このできごとそのものが、私たちの罪というものを決定的に表しているようです。
しかしイエス様は、そのまま市の中に留まっていませんでした。
父なる神様は、御子イエス様を復活させたのです。
それは、死というものが、神であるイエス様を閉じ込めておくことなどできないからです。
つまり、イエス様の復活こそ、イエス様が神であることの最大の証明でした。
そしてイエス様は、今も私たちと共におられます。
イエス様という存在そのものが、私たちに与えられている福音なのです。
福音とは、イデオロギーとか観念的なものではありません。
私達が何か宗教組織に属するということでもなければ、何かいいことが起こるとか、幸せになれるという保証でもありません。
私たちが神であるイエス様と永遠の時を過ごすことができるという、関係にこそ、福音の真髄があるということなのです。
皆さんは、そのようなイエス様との関係に入っていますか?
イエス様とともに歩み、困難に立ち向かい、どんな状況でも平安で、喜びに満たされることを体験しているでしょうか?
ローマ人への手紙を通して、皆さんが福音に生きる事の喜びを体験できるようになることを、心から願っています。
③ 神様の召し
さて、パウロの挨拶の言葉から学ぶことができる3つ目は、神様の召しです。
パウロはこの様に言っています。
1:5 このキリストによって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためです。
1:6 あなたがたも、それらの人々の中にあって、イエス・キリストによって召された人々です、──このパウロから、
1:7 ローマにいるすべての、神に愛されている人々、召された聖徒たちへ。私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があなたがたの上にありますように。
自分自身は『使徒として召された』と言っているパウロは、「あなた達もまた、神様によって召されているのだ」と、ローマの教会の人々に伝えたかったのです。
神様に召されているのは、ローマの人々だけでもありませんね。
現代生きている、私たちも同じです。
神様は、私たち全ての人々を召しておられるのです。
『召し』とは、神様が私たちを選びとることです。
この『召し』にもふたつの側面があります。
ひとつは神の家族として招かれる召し、救いのための召しです。
これは、全ての人たちがこの召しに応答するわけではありませんが、全ての人々に与えられている召しです。
この召しに応答するためには、自分が神様から離れていたことを自覚して、神様に方向転換する必要があります。
そうすれば誰もが、イエス様とともに永遠の時を生きることができるのです。
2番目の召しは、神様が私たちを選び出し、働きに任命して、派遣することです。
イエス様は弟子たちの中から12人を使徒として選び、派遣しましたよね。
パウロもまた、復活したイエス様によって使徒として召されたのだと言っています。
同じように、全てのクリスチャンは召されています。
私たちはキリストのからだの一部ですから、それぞれに使命と目的が与えられています。
実際の働きの内容は様々ですが、全ての人々になすべきことがあるのです。
みなさんは何に召されているでしょうか?
誰に、どのように仕える事が、わたしたちの召しでしょうか?
私たちが主とともに歩み、しもべとして召しに従って生きていく中に、私たちがこれまで経験してこなかったほどの素晴らしい喜びが待っています。
パウロはローマのクリスチャンたちを、そして現代の日本に生きる私たちを、そんな素晴らしい人生に招いてくれているのです。
祈りましょう。