ローマ5:12-19 『ローマ15ひとりの人から始まること』2017/10/01 松田健太郎牧師
ローマ人への手紙5:12~19
5:12 そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がったのと同様に、──それというのも全人類が罪を犯したからです。
5:13 というのは、律法が与えられるまでの時期にも罪は世にあったからです。しかし罪は、何かの律法がなければ、認められないものです。
5:14 ところが死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をさえ支配しました。アダムはきたるべき方のひな型です。
5:15 ただし、恵みには違反の場合とは違う点があります。もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。
5:16 また、賜物には、罪を犯したひとりによる場合と違った点があります。さばきの場合は、一つの違反のために罪に定められたのですが、恵みの場合は、多くの違反が義と認められるからです。
5:17 もしひとりの違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりのイエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。
5:18 こういうわけで、ちょうどひとりの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、ひとりの義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられるのです。
5:19 すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。
私たち人間は、どのような存在なのでしょう?
聖書の創世記には、私たちが本来のどのような者として創られ、今の私たちはどうなってしまっているのかということが描かれています。
神様は私たち人間を、愛し、愛されるために創造しました。
全知全能である神様が創造した私たち人間は、神様ご自身がとても良いと思われるほど、素晴らしい存在でした。
これが最初の人、アダムです。
アダムとその妻エバは、エデンの園という楽園に住んでいました。
神様は、そこにあるどの木から取って食べてもよいと言いましたが、園の中央に生えている善悪の知識の木という木だけからは食べてはならないと命じました。
しかしアダムは、サタンに誘惑されたという事もありますが、善悪の知識の木から取って食べ、神様に背くことになってしまうのです。
禁じられたその木から取って食べるという事は、人が神様に背くという事であり、命の源である神様から離れるという事は、死を意味していました。
神様に背いたアダムとエバは、神様から離れた罪人となり、死すべき存在となってしまいまったのです。
問題なのは、これがアダムの罪と裁きにとどまるのではなく、すべての人類と、この世界の運命を左右してしまう出来事だったということです。
これによってこの地上は呪われた場所となり、人間は産まれた時から罪人として生まれ、罪の結果である死と裁きの元に置かれてしまったのです。
私たちが善悪の知識の木から取って食べたわけではないのに、どうして私たちも罪人とされ、裁きを受けなければならないのでしょうか?
理不尽なことではありますが、ひとりの人の間違いが、何もしていない他の人たちに及ぶという事があります。
国のリーダーが間違えた選択をすれば、戦争が起こり、たくさんの人たちが死ぬということになります。
核戦争が起こったら、たとえ生き延びたとしてもその影響は何世代にも渡って続くことになるでしょう。
それと同じように、アダムの過ちによってアダムだけではなく全ての人類が、霊的に死んだ者となり、神様との関係が壊れてしまったのです。
では、悪いのはすべてアダムであって、アダムの罪のために私たちも裁かれることになったということでしょうか?
そう思い込んで、「なんだよアダム!」と思っている方もいるかもしれませんが、そういうことではありません。
今日の個所では、このように書かれていましたね。
5:12 そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がったのと同様に、──それというのも全人類が罪を犯したからです。
罪というものがアダムから始まったのは確かです。
でも、アダムが犯した罪によって私たちが裁かれるのではなく、私たちが神様を愛さず、それどころか背き、自分を神とし、神様が創造したように生きようとないという罪によって裁かれるわけですね。
さてこのようにして、罪はひとりの人アダムから始まり、すべての人類に広がってしまいました。
しかし神様は、アダムが罪を犯したその時から、私たちを救い出すための計画を始めていたのです。
それは、私たちのために救い主を送るという恵みの賜物です。
5:15 ただし、恵みには違反の場合とは違う点があります。もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。
ひとりの人アダムから罪が始まり、それが全ての人に影響を与えたように、今度はひとりの人イエス・キリストを通して救いという賜物が恵みによって与えられます。
恵の賜物というのは、私たちが何かをした事の対価によるのではなく、神様が無償で与えて下さったということです。
さて、ここで少し気を付けなければならないことがあります。
ある人たちは、この聖書個所を通して、全ての人たちがアダムによって罪人となったように、全ての人はイエス様によって救われているという万人救済主義を唱えるからです。
でも、パウロはそういうことを言いたいわけではありません。
すべて、アダムによって生まれた人たちが罪人となったのと同じように、イエス様によって新しい命を受けて生まれたすべての人たちが救いを受け取るということなのです。
イエス様も、ニコデモというパリサ派のユダヤ人と話した時にこのように言っています。
ヨハネ 3:5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。
3:6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
3:7 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。
つい先日拓馬くんとも話していたのですが、ユダヤ人の感覚では、『水によって生まれる』の水は羊水を表しているのだそうです。
つまりこれは、肉体的に産まれるだけでなく、聖霊によって生まれなければ神の国には入れないという意味になります。
6節の言葉を考えれば辻褄が合っていますね。
私たちが神の国に入るためには、新しく生まれる必要があるのです。
さて、今日はパウロらしく理屈っぽくて難しい話でしたが、言いたい事はシンプルです。
アダムというひとりの人の罪によって私たちはみんな罪人となり、それによって裁きを受け、死と滅びの中に入っていました。
しかし神様は、イエス様と言うひとりの人を私たちに送り、そのひとりの人が十字架にかかることによって、私たちに救いの道を拓いてくださいました。
そして、私たちが神様からの聖霊と言う新しい命を受け取るなら、私たちの罪はイエス様の命によって買い取られ、私たちは罪のない正しい者と見なされ、永遠の命が与えられるということなのです。
パウロが私たちに問いたいのは、私たちが新しい命を得て、永遠の命を手にしているかどうかということです。
そして、まだ手にしていないのなら、今すぐ神様に立ち返り、神様との愛の関係に入ってほしいということです。
皆さんはどうでしょうか?
皆さんは、新しい命を手にしているでしょうか?
でも今日は、さらにもう一歩先に進んで考えてみたいと思います。
それは、今度は私と言うひとりの人を通して、何が起こるだろうという事についてです。
イエス様は、私たちにこのように命じましたよね
『それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。(マタイ28:19-20a)』
そして、聖霊と言う新しい命を受ける時、このようなことが起こると約束しました。
『しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8)』
アダムと言うひとりの人によって、罪が私たちの中に入った。
イエス様と言うひとりの人によって、罪が贖われ、救いの道が示された。
そして、その救いを受け取った私というひとりの人から、福音はさらに広がり、もっとたくさんの人たちがイエス様と出会うようになるのです。
祈りましょう。