ルカ24:33-43 『ルカ106 神の国はどんなところか』 2017/05/07 松田健太郎牧師

ルカの福音書24:33~43

24:33 すぐさまふたりは立って、エルサレムに戻ってみると、十一使徒とその仲間が集まって、
24:34 「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現された」と言っていた。
24:35 彼らも、道であったいろいろなことや、パンを裂かれたときにイエスだとわかった次第を話した。
24:36 これらのことを話している間に、イエスご自身が彼らの真ん中に立たれた。
24:37 彼らは驚き恐れて、霊を見ているのだと思った。
24:38 すると、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。
24:39 わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」
24:41 それでも、彼らは、うれしさのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物がありますか」と言われた。
24:42 それで、焼いた魚を一切れ差し上げると、
24:43 イエスは、彼らの前で、それを取って召し上がった。

前回(先々週)は、Davidさんがお話ししてくださいましたが、エマオという町に向かっていたふたりの弟子たち(クレオパとその妻だと言われています)のお話でした。
イエス様が十字架にかけられて、絶望的になったふたりの弟子たちが、故郷であるエマオに帰ろうとしていたんですね。
その道中、ひとりの人が彼らと一緒に旅をしていました。
それは何と、復活したイエス様だったのですが、彼らはそれがイエス様ご自身であることに気が付きませんでした。

復活したイエス様は、旧約聖書からメシヤの事について話したので、弟子たちはそれに深い感銘を受けました。
そこでエマオに着いた彼らは、夕食を共にすることにしました。
しかしイエス様がパンを取り、それを割くのを見た時、弟子たちの目は開かれて、それがイエス様だという事に気が付いたのです。
するとイエス様は、その場で消えてしまったというのが、これまでの話でした。
今日は、そのすぐ後に起こった出来事ですね。

① 弟子たちの前に現れたイエス様
さて、一緒にいたのが復活したイエス様だったという事に気が付いたふたりの弟子たちは、夕食の途中でしたがすぐに立ちあがって、エルサレムへと戻っていきました。
居ても立ってもいられなくなってしまったのです。

エマオはエルサレムから11kmの距離にある村です。
11kmは歩いても2時間くらいで行ける距離ですね。
日が暮れていたとはいえ、急いで行くなら、小一時間もあればエルサレムに戻る事ができたでしょう。
するとそこでは、11弟子たちと一緒に、他の弟子たちも集まって、シモン・ペテロが見た復活のイエス様について話し合っている所でした。

そこでクレオパたちも、つい先ほど復活したイエス様が現れた事、聖書の解き明かしをし、食事を一緒にしていたけど、それがイエス様だと気が付いたとたんに消えてしまった事を話したのです。

するとその時、なんとその場にイエス様ご自身がいたことにみんな気が付いたのです。
ヨハネの福音書では、この時彼らがいた家の扉には鍵がかかっていた事も記されています。
鍵がかかった部屋なのに、さっきまでいなかった人が突然現れたら、それは驚きますよね。
弟子たちは驚き恐れたと書かれています。

こういう所に、イエス様のイタズラ心というか、本当に楽しい人だったんだろうなぁという雰囲気を味わう事ができると思いませんか?
イエス様は、噂話をしているその場所に突然現れて、みんなをびっくりさせたのです。
そしてイエス様は、このように言われました。

24:38 すると、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。
24:39 わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」

イエス様は、不信仰な弟子たちをなじるように言ったわけではないと思います。
みんなが驚く様子を見て、笑いながら「何をそんなに驚いているんだい?」と言っているように感じるのですがどうでしょうか?
そしてイエス様は、釘で刺された手や足を見せながら、自分は幽霊ではない事を弟子たちにわからせようとしたのです。

それでも弟子たちは、あまりの嬉しさになかなか信じる事ができません。
そこでイエス様は、「何か食べるものはありませんか?」と弟子たちに聞きました。
弟子たちが焼き魚を一切れ持ってくると、イエス様はそれを食べ始めたのです。
「ほら、幽霊は魚を食べないでしょ?」とでも言っているようですね。

こうしてイエス様は、彼らの前に突然現れて見せ、手と足の傷を見せ、彼らと同じように魚を食べて見せる事によって、信じる事ができない弟子たちを助けて下さいました。
私達もまた、時に不信仰でイエス様の事を信じる事ができない時があるのですが、イエス様は私たちに寄り添い、励まし、力を与えて下さいます。
イエス様は本当にやさしい方なのです。

② イエス様の栄光の体から想像する天国の姿
復活したイエス様は、たくさんの人々の前に現れました。
この後もたくさんの弟子たちが、復活したイエス様に出会ったと、聖書に書かれています。
こうしてたくさんの人たちの前に現れたことによって、イエス様の復活は誰かの思い過ごしではなく、ごまかしようのない本当の事だったんだという事がわかります。

そして、復活したイエス様によって、私たちはもう一つの事を知る事ができます。
やがて私たちが復活する時にも、この時のイエス様と同じような状態になるわけですから、天国がどのような場所なのかという事を知る手掛かりになるのです。
イエス様はどのような姿で復活したでしょうか?
イエス様はエマオに向かう人たちの元に現れ、ともに歩き、そして消えてしまいましたね。
その後、鍵がかかった部屋に突然現れました。
この時イエス様は、物理法則を超越していたことがわかります。
私たちが全くこのようになるのかどうかはわかりませんが、天国ものこのような所かもしれませんね。

消えたり、現れたり。
壁を通り抜けたり、突然遠くに現れたり、しかし触れる事もできます。
そして何よりも皆さん、グッドニュースです。
私たちは、天国でも食べる事ができるのです。(笑)

天国では食べなければ死んでしまうという事はないかもしれませんが、少なくともものを食べる事はできるようです。
天国には、おいしいものもたくさんある事でしょうね。

私達もまた、やがてこのような栄光の体として復活します。
その時には私たちも、時間や空間の支配から外れ、罪からも完全に開放されて、神様と永遠の時を過ごすことになるんですね。
その時の事を完全に想像する事は無理でしょうが、少し考えてみただけでも楽しみですね。

③ 神の国はここにある
さて、この出来事には、神の国のもうひとつの側面が描かれています。
それは、私たちが死んでから行く、天国としての神の国ではなく、今私たちがいる事ができる神の国です。

復活したイエス様と出会ったクレオパ達が真っ先に行ったのは、弟子たちの元でしたね。
そこにはすでに、イエス様と会っていたシモン・ペテロがいて、他の弟子たちも集まって、イエス様の事を話していたのです。
みんなが胸を弾ませて、イエス様の事を話すところ、そこに神の国があります。
そしてそこには、イエス様がおられるのです。

エマオの途上でもそうでしたね。
そしてそれは、今でも同じなのです。

イエス様の事が語られるところに、イエス様はいらっしゃいます。
そして、イエス様の事が理解できなかったり、信じられなくなってしまう私達の心を、諭すように語り掛けたり、手を取ってわからせようとしたりするのです。
イエス様は、まだ生きていた時からこの様に言っていました。

マタイ 18:20 ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」

という事は、今この時、この教会にも、イエス様はおられるのです。
皆さんはその事を知っていましたか?
そう考えると、私たちもワクワクしてきませんか?

聖書に語られている言葉は、今も生きておられる主の言葉です。
福音書の中にイエス様の事を読む時、それは2000年前に起こった昔の出来事を振り返っているだけではありません。
今この時、私たちに語り掛けておられるイエス様の言葉として、私たちは聖書の言葉を受け取る事ができるのです。

神の国が今、ここにあります。
そして私たちは、この神の国を教会の中から外に出し、人々に届ける必要があります。
もちろん、ひとりではありません。
そこには、必ずイエス様も共におられます。

祈りましょう。

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