ルカ22:24-30 『ルカ102 一番偉い人は誰か?』 2017/04/02 松田健太郎牧師

ルカの福音書22:24~30
22:24 また、彼らの間には、この中でだれが一番偉いだろうかという論議も起こった。
22:25 すると、イエスは彼らに言われた。「異邦人の王たちは人々を支配し、また人々の上に権威を持つ者は守護者と呼ばれています。
22:26 だが、あなたがたは、それではいけません。あなたがたの間で一番偉い人は一番年の若い者のようになりなさい。また、治める人は仕える人のようでありなさい。
22:27 食卓に着く人と給仕する者と、どちらが偉いでしょう。むろん、食卓に着く人でしょう。しかしわたしは、あなたがたのうちにあって給仕する者のようにしています。
22:28 けれども、あなたがたこそ、わたしのさまざまの試練の時にも、わたしについて来てくれた人たちです。
22:29 わたしの父がわたしに王権を与えてくださったように、わたしもあなたがたに王権を与えます。
22:30 それであなたがたは、わたしの国でわたしの食卓に着いて食事をし、王座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。

さて、今日の聖書個所の話は、いよいよイエス様が十字架にかけられる前の晩の出来事ですね。
先週Davidさんにお話しいただいた、過ぎ越し祭りの日ですね。
それが、イエス様の最後の晩餐の時でした。
その時イエス様は、パンを割き、ぶどう酒を分かち合いました。
割かれたパンは、イエス様のからだを表しています。
それを口にするひとりひとりは、キリストのからだの一部分だという事を表しています。
分かち合われたぶどう酒は、この後流されることになるイエス様の血を表していました。
この血が流されたことによって、私たちの罪は赦され、神様との関係を回復する事ができるという事のしるしです。

さて、この最初の聖餐式を受けた人たちの中には、イスカリオテのユダの姿もありました。
このユダこそが、イエス様をローマ帝国に売り渡し、十字架につけた張本人です。
そんなユダも、イエス様の聖餐式の場にいたという事は、驚くべき事ですね。
これはユダにとって、イエス様に立ち返る最後のチャンスだったかもしれません。
しかしユダはイエス様に背を向け、ローマ人たちの元へと走ってしまったのです。

そんな事が起こっているさなか、他の弟子たちは何をしていたのでしょうか?
それが、今日の聖書個所の話ですね。
この出来事は、私たちに何を教えているのでしょうか?
そして、イエス様はこの事を通して、私たちに何を伝えて下さるのでしょう?

① 誰が一番偉いのか
さて、イエス様の最後の晩餐の後、そこには弟子たちの間で議論が起こりました。
それは、「自分たちの中で誰が一番偉いか」という事についての議論だったのです。

私たちは、時としてこのような「誰が一番偉いのか」という考えにはまってしまう事があります。
特に私たち日本人は、上下関係を重んじる文化がありますから、誰が偉いのかを常に計りあっている部分があります。
私たちの中には、どうしてこのような思いが起こって来るのでしょうか?
その根底にあるのは、自分と他人を比べるという価値観ではないかと思います。
私たちは常に、自分と他の人たちを比較して、何が優れているか、何が劣っているかを判断しようとしてしまいます。
そして、自分の方が優れていると思えば優越感に浸り、自分の方が劣っていると思うと劣等感に苛まれるのです。

偉い人は他の人よりも優れているという事なのかと言うと、実際にはあまり関係がありません。
でも、そこに錯覚が起こるため、権力を持っている人たちは時として横暴な態度になったり、他人を蹴落として権力を手にするという事が起こってしまうのです。

② 仕えるものとなる
では、イエス様はどうすればいいと教えているでしょうか?
イエス様は、ご自身が明日には死ななければならないこの時に、最後の最後まで権力のために争っている弟子たちを見て、やりきれないような気持ちになったかもしれません。
しかしイエス様は、そんな弟子たちを頭ごなしに叱りつけるのではなく、このように教えました。

22:25 すると、イエスは彼らに言われた。「異邦人の王たちは人々を支配し、また人々の上に権威を持つ者は守護者と呼ばれています。
22:26 だが、あなたがたは、それではいけません。あなたがたの間で一番偉い人は一番年の若い者のようになりなさい。また、治める人は仕える人のようでありなさい。

多くのユダヤ人たちは、キリストとは政治的なイスラエルの王だと信じていました。
そして、弟子たちを含めた多くの人たちが、イエス様こそキリストであり、これから新しいイスラエルの王になるのだと思っていました。
そして、イエス様はローマ帝国をも破り、イスラエルによる世界の支配が始まると思っていたのです。

しかし、イエス様はそのような力を真っ向から否定しました。
「世の王たちは人を支配し、権力を持つ人々は、自分こそがこの世界を治める人物だという事を見せつけるために、『守護者』と名乗ったりします。
でも神様を信じるあなたたちは、そのようであってはならない。
あなた達の中で上に立つ人は、むしろ仕える人のようになりなさい。」

ルカによる福音書の中では触れられていませんが、ヨハネは福音書の中で、イエス様が身をもってこの事を示すために、弟子たちの足を洗ったことについて記しています。

ヨハネ 13:3 イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が神から出て神に行くことを知られ、
13:4 夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
13:5 それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。

人々の足を洗う仕事は、当時奴隷がしていた仕事でした。
そんな仕事を、彼らの先生であり、王になると彼らが信じていたイエス様がして下さった。
この出来事は、かなり大きな衝撃を弟子たちに与えた事でしょう。
でもイエス様がこの後私たちのためにして下さったことは、先生や王様が足を洗ってくれる以上の事だったのです。

③ 本当の謙遜
イエス様とは、本当は誰だったでしょう?
ヨハネはこの様に言っています。

ヨハネ 1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
1:2 この方は、初めに神とともにおられた。
1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

イエス様は、三位一体の神様ご自身であり、この世界を創られた方です。
そのイエス様が、天からこの地上に来られ、私たちと同じ肉体を持って、人間として生きて下さった。
そして、私たちには見る事も、触れることもできなかった神様がどのような方であり、どれほど私たちを愛しているのかを身をもって教えてくださいました。

私たちにそのような価値があったのかと言えば、とてもそのようには思えません。
神様に背き、神様から離れ、自分や他の物を神としました。
神様が創造したこの世界を破壊し、自分自身や他人を傷つけ、価値を落としてきました。
普段は神様の存在何て忘れ果て、神様の導きや忠告を一切無視し、しかし問題があった時だけ神様に助けを求め、問題が解決しなければ逆切れをする。
良い事が起これば自分の手柄、悪い事があれば神の性。
こんな私たちのために、私たちと同じ目線に立ってくださっただけでも驚くべき事です。
しかしイエス様は、こんな私たちの罪を赦し、救いだし、壊れてしまっていた神様との関係を回復するために、ご自分の命を投げ出して十字架にかかって下さったのです。
この事について、パウロは手紙の中でこのように記しています。

ピリピ 2:6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、
2:8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。

私たちは、この事をどれくらい本当に理解しているでしょうか?
これを本当に理解していたら、とても自分の事を誇ったり、偉いと思ったりなんてしてはいられないのではないでしょうか?
しかしイエス様は、命を懸けた事に関して、私たちに恩着せがましい事なんて少しも言いませんでした。
ただ一言、わたしは、あなたがたのうちにあって給仕する者のようにしています。(ルカ22:27)と言っただけです。
イエス様が実際にしたことから考えたら、これはあまりにも控えめな言い方でしょう。

私たちは、なかなかこのようなリーダーにはなれないかもしれません。
でも、私たちの本当のリーダーであるイエス様が、このような方だという事は、私たちにとっては大きな幸いです。
そしてだからこそ私たちも、このようなリーダーの姿に少しでも近づくことができたら素晴らしいですね。
そしてこのように仕えるリーダーの姿を見るなら、その人たちはリーダーの行動の中に愛を感じるでしょう。
そして、その人たちもまた、リーダーと同じように、愛をもって誠実に仕えようとするのではないでしょうか。
そうやって私たちも、仕えるリーダーとして、社会に、地域に、会社に、人に仕えるものとして成長していくのです。

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