ルカ18:31-43『 ルカ90 見えるようになれ』 2017/01/08 松田健太郎牧師
ルカの福音書18:31~43
18:31 さてイエスは、十二弟子をそばに呼んで、彼らに話された。「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子について預言者たちが書いているすべてのことが実現されるのです。
18:32 人の子は異邦人に引き渡され、そして彼らにあざけられ、はずかしめられ、つばきをかけられます。
18:33 彼らは人の子をむちで打ってから殺します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」
18:34 しかし弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。彼らには、このことばは隠されていて、話された事が理解できなかった。
18:35 イエスがエリコに近づかれたころ、ある盲人が、道ばたにすわり、物ごいをしていた。
18:36 群衆が通って行くのを耳にして、これはいったい何事ですか、と尋ねた。
18:37 ナザレのイエスがお通りになるのだ、と知らせると、
18:38 彼は大声で、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」と言った。
18:39 彼を黙らせようとして、先頭にいた人々がたしなめたが、盲人は、ますます「ダビデの子よ。私をあわれんでください」と叫び立てた。
18:40 イエスは立ち止まって、彼をそばに連れて来るように言いつけられた。
18:41 彼が近寄って来たので、「わたしに何をしてほしいのか」と尋ねられると、彼は、「主よ。目が見えるようになることです」と言った。
18:42 イエスが彼に、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを直したのです」と言われると、
18:43 彼はたちどころに目が見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った。これを見て民はみな神を賛美した。
何年か前の話ですが、ぎっくり腰で腰を痛めてしまった事がありました。
腰が痛い時は温めればいいと聞いたことがありましたので、僕はカイロを入れて温めていたんですね。
しかしちっともよくならないので、整骨院に行って診てもらう事にしました。
すると、「松田さん。腰を痛めた時は冷やすんです。温めたらダメですよ。」と言われてしまったんです。
「温めるのは、肩こりのような慢性の痛みであって、ケガをした時には炎症を起こして熱を持った状態ですから、冷やさなきゃダメなんです。」との事でした。
腰痛は温めれば良いと思っていた対処法は、実は返って炎症を長引かせることになっていたんですね。
皆さんは、本当はわかっていないのに、判ったつもりになっている事ってありませんか?
今日は、イエス様の事をわかったつもりでいた、弟子たちの話から始まります。
① ことばが隠される
イエス様は12弟子たちを集めて、これから起こる事について話し始めました。
18:31 さてイエスは、十二弟子をそばに呼んで、彼らに話された。「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子について預言者たちが書いているすべてのことが実現されるのです。
18:32 人の子は異邦人に引き渡され、そして彼らにあざけられ、はずかしめられ、つばきをかけられます。
18:33 彼らは人の子をむちで打ってから殺します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」
それは、イエス様がこれからエルサレムで最後の時を迎え、3日後によみがえるという話しでした。
これは、旧約聖書の中に何度も預言され、人間が神様から離れて罪人となってから、ずっと待ち望んできた事でした。
イエス様はこのために人となり、地上に来たのです。
これまでイエス様が話してきたことや、起こしたみわざは、すべてこれから受ける十字架に繋がる事でもありました。
その最後の時が、いよいよ始まろうとしているのです。
しかし、それを聞かされた弟子たちには、イエス様が何のことを話しているのか、まったくわかりませんでした。
イエス様が十字架で死ぬことについて話したのは、これが初めてではありません。
あまりはっきりしていない暗示するような言葉まで含めれば、7回も十字架と復活の話をしているのです。
何より弟子たちは、イエス様と共に多くの時間を過ごしてきたはずです。
それなのに、どうして弟子たちにはわからなかったのでしょうか?
この様に書かれています。
18:34 しかし弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。彼らには、このことばは隠されていて、話された事が理解できなかった。
弟子たちには、この言葉が隠されていました。
ひと言でいうなら、それは彼らの霊的な目が閉じられた状態にあったという事です。
霊的な目が閉じられていたら、盲目になっているのと同じですから、イエス様が何を言っても見えない、解りません。
これは僕自身、福音を伝える時によく直面します。
何をどんな風に言っても、頭脳が明晰かどうかとか、読解力があるかどうかにかかわらず、解らない人には解らないのです。
逆に、十字架による罪の贖いという難しい話を、何の教育も受けていない人でも簡単に理解して受け入れる事があります。
弟子たちは、イエス様の事がわかっているつもりでいました。
彼らは、イエス様が聖書の中に記されている救い主だという事も信じていました。
それでも、イエス様が十字架にかかり、死に、三日後によみがえるという事が理解できませんでした。
復活したイエス様と会い、ペンテコステの時に聖霊が与えられるまでは、霊的な目が開かれることはなかったのです。
「解っているつもりで、実は何も解っていなかった」という事があります。
霊的な目が開かれる必要があるのです。
② わたしに何をしてほしいのか
さて、エリコという町に近づくと、イエス様は道端にいた盲目の物乞いと出会いました。
この物乞いは、近くに通るのがイエス様だという事を知ると、大声で叫び求めたのです。
「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」(ルカ18:30)
彼があまりにうるさいので、弟子たちはこの物乞いをたしなめました。
子どもたちが連れて来られた時もそうでしたが、イエス様の働きの邪魔だと思ったのでしょう。
しかしこの物乞いは、ますます大きな声で叫びました。
「ダビデの子よ。私をあわれんでください」
「ダビデの子」という呼び方は、旧約聖書の中で約束されている「救い主は、ダビデの子孫から生まれる」というメシヤのしるしのひとつです。
イエス様をダビデの子と呼ぶ事それ自体が、この物乞いの信仰告白でした。
彼は本気でそれを信じていたので、「私を憐れんでください」と必死に求めたのです。
この物乞いの声を聞いたイエス様は、彼を連れてくるように弟子たちに言いました。
イエス様は、求める人を決して放ってはおかない方なんです。
さて、盲目の物乞いが連れて来られると、イエス様は彼に尋ねました。
「わたしに何をしてほしいのか?」
物乞いは「憐れんで下さい」というばかりで、それが何をしてもらう事なのかは何も言っていなかったんですね。
そこで物乞いは答えます。
「主よ。目が見えるようになることです」
それを聞くと、イエス様はこの様に言いました。
「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを直したのです」
するとこの盲人の目はたちまち開いて、見る事ができるようになりました。
そして彼は、イエス様の弟子となり、イエス様について行くようになりました。
それを見た人々は、神様をほめたたえたのです。
さて、ここからも色んなことを学ぶことができますが、ひとつずつ見ていきましょう。
第一に、私たちはこの話から祈りについて学ぶことができます。
イエス様はこの盲人に、「わたしに何をしてほしいのか?」と尋ねました。
聞かなければわからなかったから、というわけではありません。
イエス様は、この人が本当に求めているものは何かという事を自覚するために、自分の言葉で答えさせたのです。
私たちが祈る時にも同じことが言えますね。
神様は、私たちが祈る前から、私たちに必要なものをご存知です。
でも、私たちがそれを祈る事を求めています。
私たちが祈るまで、それを起こさない事もあります。
私たちにとって本当に大切なのは、私たちの思いが神様に御心に近づくことだからです。
第二に、「あなたの信仰があなたをなおしたのです。」というイエス様の言葉です。
この人が癒されるためには、イエス様を信じる信仰が必要でした。
でもそれは、この人が信じる力が強かったから治ったとか、信じる力が弱いと治らないという話ではありません。
私たちには、信仰がなければ受け取る事ができないものがあるのです。
その最たるものが救いですね。
信仰が救いを生み出すのではなく、神様が与える救いを受け取るために、神様に信頼する信仰がなければならないという事なのです。
③ 求めれば与えられる
この話から学ぶことができる第三の事は、この物乞いが何を求めていたかという事です。
彼は、「目が見えるようになること」を求めていました。
弟子たちが霊的に盲目だという事が示されたすぐ後で、イエス様たちが盲目の物乞いと出会ったことは、偶然ではありません。
神様のタイミングです。
そしてこの話の流れで、「目が見えるように」求めたことが、とても大切な事なのです。
私たちにとって問題なのは、見えていないのに見えているふりをする事です。
判っていないのに、判っているようにふるまうのも、それと同じですね。
見えているふり、判っているふりをしたら、問題は何も解決しません。
霊的な目が開いていないために見えないならば、この物乞いのように、イエス様に求めればよかったのです。
わからなければ、神様に聞いてみればいいのです。
イエス様は言っています。
マタイ 7:7 求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
神様に求め続ければ、与えられます。
捜し続ければ、見つかります。
たたき続ければ、扉は開かれるのです。
私たちは、判っているつもりになってしまっていないでしょうか?
求める前に、すでに受け取ったつもりになってはいないでしょうか?
それでは私たちは、僕が間違えて患部を温めてしまったように、間違えた対処法をしてしまうかもしれません。
難しい事は何もありません。求め、祈りましょう。
イエス様が、私たちの目を開いてくださいます。