ルカ18:18-30 『ルカ89 神様にはできる』 2017/01/01 松田健太郎牧師

ルカの福音書18:18~30
18:18 またある役人が、イエスに質問して言った。「尊い先生。私は何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」
18:19 イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかにはだれもありません。
18:20 戒めはあなたもよく知っているはずです。『姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。父と母を敬え。』」
18:21 すると彼は言った。「そのようなことはみな、小さい時から守っております。」
18:22 イエスはこれを聞いて、その人に言われた。「あなたには、まだ一つだけ欠けたものがあります。あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」
18:23 すると彼は、これを聞いて、非常に悲しんだ。たいへんな金持ちだったからである。
18:24 イエスは彼を見てこう言われた。「裕福な者が神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう。
18:25 金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」
18:26 これを聞いた人々が言った。「それでは、だれが救われることができるでしょう。」
18:27 イエスは言われた。「人にはできないことが、神にはできるのです。」
18:28 すると、ペテロが言った。「ご覧ください。私たちは自分の家を捨てて従ってまいりました。」
18:29 イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てた者で、だれひとりとして、
18:30 この世にあってその幾倍かを受けない者はなく、後の世で永遠のいのちを受けない者はありません。」

前回イエス様の元に集まって来たのは、幼子たちとそれを連れてきた親たちでした。
今回は、ある役人がイエス様の元にやって来て質問をします。
この役人は、他の福音書では金持ちの青年として記されていますから、若い役人だったのだと思います。
彼は、こんな質問をしました。
「尊い先生。私は何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」(ルカ18:18)

『永遠の命』とは、旧約聖書に書かれている、神様の約束のひとつです。
つまり平たく言えば、「救われるためにはどうしたらいいか」という事を聞いているわけですね。
しかし彼が、「救われるためには」でも「神の国に入るためには」でもなく、「永遠の命を自分のものとして受ける」という表現をしている所に、彼が何を求めているかという事が表されているように思います。
つまり彼は、今の人生に満足していた人だという事です。

今は辛い、苦しいから救われたいのではなく、神様の支配の中に入りたいのでもなく、「今の世が永遠に続いてほしい」という思いが、この言葉の中にはありました。
さて、この青年に、イエス様はどのように答えたでしょうか?

① 尊い先生に従う
イエス様はまず、私たちが思いもよらないところから話を始めました。

18:19 イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかにはだれもありません。

この金持ちの青年が「尊い」という言葉を使ったのは、たぶんイエス様に媚びを売るためであり、お世辞のようなものだったかもしれません。
でも「尊い」という言葉は、本来神様をあがめるために使う言葉でした。
イエス様は、そこに注目し、この若者にもう一度考える機会も与えたのです。
「あなたは自分で言った「尊い先生」という言葉の意味が本当にわかっていますか? そしてそのような言葉を使うなら、本気でそのように思っていますか?」

私たちは神様を「神様」と呼んだり、「主」と呼びます。
私たちは本当にそう思って、その言葉を使っているでしょうか?
神様は私たちの神様ですか? そして私たちの主でしょうか?
本当にそう思っているなら、そのように生きるべきですね。
私たちは、私たちの主である神様に聞き、従うべきなのです。

さて、イエス様は続けます。

18:20 戒めはあなたもよく知っているはずです。『姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。父と母を敬え。』」

神様の御心に適う人は、永遠の命の中に生きる事ができます。
では、神様の御心に適っているかどうか、どのようにして知る事ができるでしょう?
神様が求める正しさは律法の中に表されています。
イエス様はまずそれを明らかにしました。
すると、金持ちの青年はこの様に答えたのです。

18:21 すると彼は言った。「そのようなことはみな、小さい時から守っております。」

彼は、律法をすべて守っているつもりでいたんですね。
でも、それならなぜ、彼は永遠の命をまだ自分のものにはしていないと思っているのでしょうか?
そこに、この青年が抱えるジレンマがあるように思います。
「自分はこれまで、教えられていたように律法に従ってきた。それなのにとても救われたように思えない。どうしてこんなにむなしいのか? 何が足りないというのだろうか?」
もしかしたら、彼の中にはそんな思いがあって、その答えをイエス様に求めたのではないでしょうか。
イエス様は、このように答えたのです。

18:22 イエスはこれを聞いて、その人に言われた。「あなたには、まだ一つだけ欠けたものがあります。あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」

「すべてを貧しい人に与えて、わたしについて来なさい。」
それがイエス様の答えでした。
しかしそれを聞くと、この青年はとても悲しがって去って行ってしまったのです。
イエス様のこの言葉は、少し理解するのが難しいですね。
イエス様は何を言おうとしていたのでしょうか?

② らくだと針の穴
「持っているものすべてを手放しなさい」というイエス様の言葉は、この青年にはとても難しいものでした。
例えそれによって永遠の命を受ける事ができると言われていても、彼にはお金を手放すことができませんでした。
そして彼は、尊い先生の言葉よりも、お金の方を選んでしまったのです。
それは彼がお金を偶像としているという事であり、律法を破っている事に他なりません。
彼は、自分は子供のころからずっと律法を守っていると思っていました。
そして、律法の通りに生きているのに、どうして救われているように思えないのかと思っていましたが、実は律法を守ることなどそもそもできてはいなかったのです。

私たちはどうでしょう?
神様がそれを手放しなさいと言われるなら、それを手放すことができるでしょうか?
お金、仕事、趣味、こども・・・。
私たちに手放すことができないものがあるならば、私たちの中には偶像があるという事です。
私たちは、律法を破ってしまっているのです。

イエス様は去っていくこの青年を見て、このように言いました。

18:24 イエスは彼を見てこう言われた。「裕福な者が神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう。
18:25 金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」

「らくだが針の穴を通る」というのはどういう意味でしょうか?
これにはいろんな説がありますが、その一つを紹介します。
エルサレムの城壁にはいくつもの門がありましたが、その中には馬車が通れるような大きな門もあれば、人がようやく通れるような小さな門もありました。
その小さな門を、“針の穴”と呼んだのだそうです。
その門をらくだが通るのは大変で、イエス様はその事を言っているのだというのです。

裕福な人たちが神の国に入る事は、それ程までに難しい。
彼らには、神様以外に頼るものがあるからです。
そしてそのお金は簡単に偶像となってしまい、神様を選ぶことができなくなってしまうのです。

では、お金持ちではない私たちには簡単でしょうか?
私たちは、何でもお金で解決できるほどには、お金持ちではないかもしれません。
しかし私たちの中に、神様以外により頼んでしまう存在があるならば、あるいは神様に委ねることができないものがあるならば、気を付ける必要があります。
それは、私たちの中で偶像となってしまっている可能性があるからです。

③ 人にはできないことが、神にはできる
それを聞いた弟子たちは驚きます。
「それでは、誰が神の国に入る事ができるでしょう? そんな事を言い始めたら、神の国に入る事なんて、誰にもできないではありませんか。」

そうですよね。
でもそれは、イエス様がずっと言っていた事でもありました。
私たちは誰も、自分の力で神の国に入る事はできないのです。
だからイエス様は、こう言いました。

18:27 イエスは言われた。「人にはできないことが、神にはできるのです。」

人には、誰にもできません。
でも、人にはできない事が、神様にはできるのです。

私たちがやるのではない。
でも私たちが神様を見上げ、助けを求める時、神様が私たちの内になして下さるのです。
ここでこの話は、先週の話と繋がりますね。
自分が幼子のように無力だという事を知らなければ、誰も神の国に入る事はできないのです。

しかし、自分の罪を認め、自らの無力さを知り、神様にすべてを委ねていく時、私たちの人生は変わります。
イエス様が難しいと言ったお金持ちであっても、神様に不可能はありません。
この後に出てくる、取税人ザアカイがまさにそうですね。
ザアカイの人生が変わるなら、私たちも変わるはずです。

私たちはすぐに他の、目に見えるものに頼ろうとしてしまいます。
私たちは、お金や地位などを初め、どんなものでも偶像にしてしまう。
あから私たちは、まずその罪を認めるという事が必要です。
そして、自分の力ではそんな罪から離れる事すらできない事を神様に告白し、助けを求めるのです。
すべてを神様に委ね、神様に従って行動していく時、私たちの人生は変わり始めます。
そこに、神の国が開けていくのを、私たちは目撃するのです。
2017年を、そのような年として迎えませんか?
祈りましょう。

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