ルカ18:15-17『 ルカ88 幼子のように』 2016/12/25 松田健太郎牧師
ルカの福音書18:15~17
18:15 イエスにさわっていただこうとして、人々がその幼子たちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちがそれを見てしかった。
18:16 しかしイエスは、幼子たちを呼び寄せて、こう言われた。「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。
18:17 まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」
メリークリスマス!
今日はクリスマスですね!
クリスマスを、主にある家族と共に過ごすことができるのは、とても嬉しい事です。
クリスマスは、2000年前に救い主が地上にお生まれになった事を祝う特別な日です。
どうして12月25日にそれを祝うようになったのかという事に関しては、実はイエス様はあまり関係がなかったりもします。
だから、人間が勝手に決めたその日を、クリスチャンとしては祝うべきでないと考える人もいないわけではありません。
でも、パウロはこんな風に言っていますね。
ローマ 14:5 ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。
せっかくその日が定められ、祝う事を決めたなら、私たちは心からそれを喜び、祝ったら良いのです。
心からクリスマスを祝っていきましょう!
① 集まって来たこどもたち
さて、イエス様はどうして地上にお生まれになったのでしょうか?
このルカの福音書のシリーズは、そんなところからスタートしたのを覚えているでしょうか?
イエス様が人として地上に来られた理由。
それは、究極的には十字架にかかって、私達の身代わりとなって裁きを受けるためです。
それによって、罪という大きな借金を、自らの命によって買い取るためでした。
その事は、私たち人類が神様から離れて罪人となったその時から、神様が救いの手段として計画していた事だったのです。
今は、その最後の旅の途中。
いよいよ十字架にかかるために、エルサレムに向かっているという所なのです。
イエス様の旅には、12人の使徒たちを始め、何人もの弟子たちが一緒でした。
彼らは、どのような思いで一緒に歩いていたのでしょうか?
弟子たちは、これからイエス様の身にどのような事が起こり、それにどのような意味があるのかという事を、ちゃんと理解してはいませんでした。
もしかすると、これから首都であるエルサレムに入って、いよいよ王になる時が近づいていると思っていたのかもしれません。
そういう意味では、この旅が大変差し迫ったものであり、大変な時を迎えようとしていたという事だけは感じ取っていたようです。
さて、そんなところに、こども達が連れて来られたのです。
“幼子”と書かれていますから、せいぜい5~6歳くらいまでの子どもだったでしょう。
恐らく母親たちが、自分の子どもたちを連れて、イエス様の元に集まって来たのです。
今や有名人となっていた奇跡の男イエス様に、子どもたちを祝福してもらうためでした。
それを見た弟子たちは、親たちを叱ったんですね。
「今、イエス様は忙しいんだ。子どもたちに構っている場合ではない。」
そう言って、彼らを追い払おうとしました。
ところが、それを見たイエス様が、逆に弟子たちを叱ったのです。
そしてそれを留めないで、子どもたちを連れてくるようにと彼らに言ったのです。
② 神の国は子どもたちのもの
イエス様は、弟子たちにこのように話しました。
「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。
まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」
『神の国』の話がまた出てきましたね。
初めて来た方たちのために少しお話ししておく必要があると思います。
『神の国』は、イエス様が私たちに伝えようとしていた最も大切な事です。
イエス様が私たちに伝えようとしていたのは、「良い人間になりなさい」とか「悪い事をしてはいけない」という話しではなく、「『神の国』に入りなさい。」という事でした。
『神の国』とは何でしょう?
死んでから行く天国の事えしょうか?
確かに、天国を差して神の国という事もありますが、それだけではありません。
神の国とは、神様が王であり、神様が神であり、神様の支配がある所の事です。
「神様が神である」というのは、言葉としては当たり前の事のように思いますが、私たちはそのように生きてはいません。
私たちは、自分の人生を自分で決めたり、環境に流されて生きていないでしょうか?
私たちは多くの場合、自分自身や、周りの環境を神として生きてしまっているのです。
私たちが自分の神であることを止め、神様の支配の中に生きる時、そこに神の国が始まります。
私たちが神の国に生きるなら、そこには平安があり、喜びがあり、どんな苦難も乗り越える力が与えられるというのが、イエス様がこれまで話してきた事だったのです。
そして今イエス様は、神の国とはこどもたちのものなのだと言います。
それは、「大人もこどもも神の国に入れるんだよ」という事ではありません。
イエス様は、「むしろあなたたちも、この子どもたちのようになるのでなければ、神の国に入る事は出来ない。」と言っているんですね。
これは、どういう事なのでしょうか?
③ 幼子のように
第一に、子どもは素直だという事です。
ここに連れて来られていた子どもたちは、自分の意思でイエス様の元に来たわけではないだろうと思います。
でも、大人たちに連れて来られるままにそれを受け入れ、何の疑いもなくそれを受け入れました。
私たちもまた、そのような素直な心で神様を受け入れるのでなければ、神の国に入る事は出来ないという事なのです。
第二に、子どもは無力だという事です。
大人と違って、小さな子どもたちは何でも自分でできるわけではありません。
それと同じように、私たちは自分の力で自分を救う事は出来ません。
どれだけ正しい行いをしてみても、どれだけ悪い事から離れようとしても、私たちは神様の基準に達する事は絶対にできないのです。
エペソ人への手紙に、このように書かれています。
エペソ 2:8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
2:9 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
私たちは子供たちのように、自分の力で自分を救う事は出来ない、無力な存在だと知る必要があるのです。
第三に、子どもは信頼するという事です。
自分の無力さを知っている子どもたちは、親を信頼していました。
だから素直に受け入れる事もできたわけですね。
私たちも、神様に信頼する必要があります。
その信頼する心の事を、聖書では信仰と呼んでいるのです。
私たちは、この世界の中で生きていく中で、つい力んでしまいがちではないでしょうか?
自分がやらなければという思いを強く持って、たくましく生きていく。
それも美しい姿だと思いますし、素晴らしい事です。
そのような思いで踏ん張らなければならない時もあるのだと思います。
でも私たちは、自分だけを頼りにして生きるようにとは創られていません。
神様は、私たちを突き放し、「勝手に生きろ」とは言っていないのです。
むしろ神様は、「私がともにいる。」と言ってくださいます。
そして、自分の人生を神様に委ね、より頼むことを求めているのです。
それはもちろん、「神様が何でもやってくれるから、私たちは何もしなくていい」という事ではありません。
神様の導きに従って、自分では選ばないような困難の中に入って行く事もあるでしょう。
しかしその道のりは、私たちがひとりで歩むのではないという事は、何と心強い事でしょうか?
イエス様はこの様に言います。
マタイ 11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
私たちが「自分を救い、自分で人生を切り引かなければならない」と考える重荷を下ろさせるために、イエス様は地上に来ました。
このクリスマスの時、皆さんがもう一度その事を考える時としていただきたいのです。
そして、今背負ってしまっている重荷を下ろしてみませんか?
神様が負わせる重荷だけを負う人生を、生きていきませんか?
幼子のように、それを受け入れていただきたいのです。
祈りましょう。