ルカ18:9-14 『ルカ87 神の国は誰のもの?』 2016/12/18 松田健太郎牧師
https://youtu.be/HW3YIs5uGkM
ルカの福音書18:9~14
18:9 自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。
18:10 「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。
18:11 パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。
18:12 私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』
18:13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
18:14 あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」
ルカの福音書は後半に入って、『神の国』とは何かという話題が続いています。
『神の国』は、イエス様が私たちにもっとも伝えたかった事だからです。
地上を去る事になる前に、イエス様は少しでもこの事を伝えたいと思っていたのです。
だから今日も、『神の国』についてともに考えていきましょう。
神の国とは何でしょう?
神の国とは、神様の支配がある所です。
私たちが、神様を王様として生きていく時、私たちのただ中にあるのでしたね。
そしてイエス様がもう一度この地上に来られる時、神の国は完成するのだとイエス様は言っています。
それでは、神の国にはどのような人たちが入る事ができるのでしょうか?
今日の聖書個所を通して、その事を一緒に考えていきたいと思います。
① パリサイ人の正しさ、取税人の罪
さて、どのような人が神の国に入る事ができると、皆さんは思うでしょうか?
多くの方は、正しい人や良い行いをした人が神の国に入る事ができると思うようです。
それが、良い行いをする事のモチベーションになる事もあるのかもしれません。
でも問題なのは、行いの正しさによって神の国に入る事ができるほど正しい人は、私たちの中にはいないという事です。
『義人はいない。ひとりもいない。』
これこそ、私たちが直面させられる正しさの問題なのです。
しかしそれでも、正しくない人は天国には行けないと思いたくなる誘惑は離れません。
あるいは、熱心な信仰を持っていなければ天国に入れないのではないかと考えてしまったりするのです。
そのような人たちに対してイエス様が話したのが、今日の個所で描かれている話です。
このたとえ話では、ふたりの人物が神殿で祈る様子が描かれています。
ひとりは人々から尊敬され、宗教的なエリートでもあったパリサイ派のユダヤ教徒です。
彼は、この様に祈っています。
『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』(ルカ18:11b~12)
彼はまず、自分はゆすりや、不正や、姦淫など悪い事をしないという事を祈っています。
そして、ゆすりもたかりも不正も姦淫もすべて行っているような取税人のようではない事を神様に感謝しますと祈りました。
それだけではなく、彼は週に2回も断食し、十分の一を必ず捧げるような正しい行いも守っていました。
律法で定められていた断食は年に1回だけでしたから、彼はとても熱心な信仰を持っていた事がわかります。
このたとえ話に出てくるもう一人の人は、パリサイ人とは対照的に、みんなから嫌われている取税人でした。
彼らはどうして嫌われていたのでしょう。
第一に取税人は、イスラエルを事実上支配しているローマ帝国に収める税金を集める人たちでしたから、裏切者のような立ち位置にいました。
第二に、税金を余分に回収してそれによって金を儲けていたずるい人たちでした。
第三に、金に物を言わせて人々をいじめ、罪にまみれた生活をするような嫌なやつだったということです。
政治的に見ても、道徳的に見ても、宗教的に見ても、どうやっても悪いところしか見えてこないのが、この取税人たちだったのです。
ところがこの取税人は、神殿で、神様の御前に来て祈っていました。
しかし彼にはやましい事がたくさんあったので、神様を見上げる事すらできません。
そして彼は、ただこのように祈ったのです。
『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
この時に神様の前に正しいとされたのは、パリサイ派のユダヤ教徒ではなく、取税人の方だったとイエス様は言います。
正しくて熱心なパリサイ人ではなく、罪にまみれた取税人が救われている。
これには多くの人が納得できなかった事でしょう。
皆さんはどのように思われますか?
どうしてパリサイ人ではなく、取税人が神様に受け入れられたのでしょうか?
② パリサイ人の問題、取税人の正しさ
パリサイ人は宗教のエリートとしてみんなに尊敬されていましたが、神様の目にはたくさんの問題がありました。
第一の問題は、福音を宗教にしてしまった事です。
神様が私たちにもたらしたかったのは、関係の回復でした。
しかし、人々はそれをルールにし、宗教的な行いの中に閉じ込めてしまったのです。
宗教は表面的な行動だけに注目させ、それを守るか違反するかによって人々を裁きます。
それは、神様が求める愛の関係から、ほど遠いものだったのです。
第2の問題は、彼らの独善です。
宗教的な行いが注目される中で、その行動基準を決めるのは、いつでもパリサイ派の人々が中心となる律法学者たちでした。
彼らが勝手に正しさの基準を決めていたのです。
第三に、比較の価値観です。
表面的なものに注目して善悪を計ると、必ず他人と自分を比較する事になります。
このたとえ話に出てくるパリサイ人も、もっと罪深い取税人と比べて自分は正しいと考え、それに満足していました。
私たちが祈りの中で注目するべきは、自分自身のことではありません。
また、他の誰かを見るのでもなく、神様に注目し、御心を知る必要があるのです。
このパリサイ人の一番の問題は、自分は正しく、何の問題もないと思っていた事です。
でもそれは、自分たちの都合に合わせて作ったルールの上での話です。
あるいは、他人との比較の中で勝手に正しいと思い込んでいるだけです。
実は私たちも、このような思いに支配されてしまいがちではないでしょうか?
わかりやすいために表面的な正しさだけを追求し、他人との比較によって得た自己満足の正しさにふけってしまっているのではないでしょうか?
そのような価値観に留まって自分を正しい人だと思い込んでいる限り、私たちが神様を見上げる事はありません。
神様を必要としないからです。
一方で、取税人はそうではありませんでした。
もちろん、取税人が正しい人だったというわけではありません。
彼にはパリサイ派の人以上の罪や問題がたくさんありました。
しかし、彼は自分が罪びとであることを知っていたのです。
だから彼は神様を求め、しかし目を上げる事も出来ず、『憐れんで下さい』としか言う事が出来なかったのです。
パリサイ人ではなく、取税人が神様から受け入れられた理由を、イエス様はこのように説明しています。
『なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。』
神様は私たちを愛しています。
私たちを赦し、受け入れたいと願っています。
でも、私たちの側が赦される必要がある事を認めようとしないなら、神様の愛を受け取る事もできません。
私たちが罪を認め、神様の御前に罪人として出る時、私たちは初めてその赦しを受け取る事ができるのです。
③ 自分を低くする
最後に、この話を聞いて勘違いする人たちもいるので、皆さんは気を付けて下さい。
この話は、「罪を重ねて取税人のような生き方をした方がいい」という事ではまったくありません。
パウロは手紙の中でこのように書いていますね。
ローマ 6:1 それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。
6:2 絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。
昔はいじめっ子でヤンチャもしたけど、更生して普通になった人の方が、昔からマジメに生きている人よりもいい人に見られるという錯覚に騙されてはいけません。
自分が罪びとである事を知るために、罪を重ねる必要があるのではないのです。
確かに、罪がもたらす痛みを知っているからこそ分かる事もあるかもしれません。
でも、そんな痛みなしに神様に立ち返る事ができれば、それに越したことはないですね。
大切なのは、私たちが罪を犯すことではなく、罪人なのだと知る事です。
そして私たちが神様との関係を回復しない限りは、どんなに自分が正しいと思う事をやっても、的外れなのだと知る事です。
イエス様が言っている、『自分を低くする』という事は、決して自分を低く見せようとしたり、低くなる事ではなく、「自分が低い事を知る」という事に他ならないのです。
イエス様はかつてこのように言いました。
マタイ 5:3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
神の国は誰のものでしょう。
神の国は、心が貧しいこと、自ら低い事を知っている人たちのものです。
皆さんは、自分の低さを知っていますか?
自分の心の貧しさを知っているでしょうか?
神様こそが、そこに希望を与える事ができるのです。祈りましょう。