ルカ17:20-37 『ルカ85 神の国が来る時』 2016/12/04 松田健太郎牧師

ルカの福音書17:20~35
17:20 さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。
17:21 『そら、ここにある』とか、『あそこにある』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」
17:22 イエスは弟子たちに言われた。「人の子の日を一日でも見たいと願っても、見られない時が来ます。
17:23 人々が『こちらだ』とか、『あちらだ』とか言っても行ってはなりません。あとを追いかけてはなりません。
17:24 いなずまが、ひらめいて、天の端から天の端へと輝くように、人の子は、人の子の日には、ちょうどそのようであるからです。
17:25 しかし、人の子はまず、多くの苦しみを受け、この時代に捨てられなければなりません。
17:26 人の子の日に起こることは、ちょうど、ノアの日に起こったことと同様です。
17:27 ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、食べたり、飲んだり、めとったり、とついだりしていたが、洪水が来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。
17:28 また、ロトの時代にあったことと同様です。人々は食べたり、飲んだり、売ったり、買ったり、植えたり、建てたりしていたが、
17:29 ロトがソドムから出て行くと、その日に、火と硫黄が天から降って、すべての人を滅ぼしてしまいました。
17:30 人の子の現れる日にも、全くそのとおりです。
17:31 その日には、屋上にいる者は家に家財があっても、取り出しに降りてはいけません。同じように、畑にいる者も家に帰ってはいけません。
17:32 ロトの妻を思い出しなさい。
17:33 自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い、それを失う者はいのちを保ちます。
17:34 あなたがたに言うが、その夜、同じ寝台でふたりの人が寝ていると、ひとりは取られ、他のひとりは残されます。
17:35 女がふたりいっしょに臼をひいていると、ひとりは取られ、他のひとりは残されます。」

12月になりました。
町では、すっかりクリスマスの色になってきていますね。
クリスマスは、私たちの救い主イエス様の誕生を祝う日です。
アダムとエバの時から、神様は罪人となってしまった私たちに救うために、救い主を送るという約束をしてくださっていました。
今から2000年前、その約束はついに身を結び、イエス様は地上に生まれたのです。
だから私たちは、イエス様の誕生を心から喜び、祝うわけです。

神様はなぜ救い主を地上に送ったのでしょうか?
それは、私たちすべての人々を、神の国に招くためでした。
神の国については、先週お話ししましたね。
神の国は、私たちが神様を王とし、イエス様と共に生きる歩みの中にあります。
そして、神様を王とする私たちの交わりの中に、神の国はあるのです。
それは、いつかどこかに来るというものではありません。
なぜなら、私たちがイエス様と共にいる時、神の国はもうそこにあるからです。

さて、ここからイエス様は、弟子たちだけに話を始めます。
それは、神の国の完成についての話でした。
今日はこのみことばを通して、神の国は、いつ、どのような形で完成するのかという事に関して考えていきましょう。

① 人の子の日
イエス様は、神の国の完成の時の事を、『人の子の日』と呼びました。
人の子というのは、ダニエル書で預言されている救い主の事です。
聖書の別の所では、この日の事を『主の日』と呼んでいますね。
それは、罪の呪いによって壊れてしまったこの世界が、終わる時でもあります。
神様を拒否して救いを受け取らない人々は、この古い世界とともに永遠の滅びへと入ります。
そして、イエス様を通して神の国へと入った人々が、完成した神の国に入って行く時が、人の子の日であるとイエス様は言っているのです。

イエス様はこの様に言っています。

17:22 イエスは弟子たちに言われた。「人の子の日を一日でも見たいと願っても、見られない時が来ます。
17:23 人々が『こちらだ』とか、『あちらだ』とか言っても行ってはなりません。あとを追いかけてはなりません。
17:24 いなずまが、ひらめいて、天の端から天の端へと輝くように、人の子は、人の子の日には、ちょうどそのようであるからです。
17:25 しかし、人の子はまず、多くの苦しみを受け、この時代に捨てられなければなりません。

神の国が完成する前に、イエス様は人々に捨てられ、この世界で多くの苦しみを受けなければなりません。
これは、イエス様が十字架にかけられ、殺されることを意味していますね。
そして一度地上を去ったイエス様が、もう一度この地上に戻って来る時を待たなければならないのです。
イエス様が地上に戻って来るときの事を、私たちは『イエス様の再臨』と呼んでいます。

イエス様が地上に生まれて、十字架で殺されるまでの33年間が、イエス様の最初の降臨という事で初臨と言います。
そして、もう一度来られることを再臨と言うのです。

イエス様の再臨がいつ起こるのかという事は、誰も知る事ができません。
異端やカルトの教会は、『イエスの再臨は何年の何月だ』という事を言いますね。
エホバの証人は、1914年にイエス様の再臨があり、今は隠れたところから世界を統治していると教えています。
世界平和統一家庭連合(統一協会)は、文鮮明が再臨のキリストであると言っていました。
今でも、『自称再臨のイエス』が世界中にたくさんいますが、私たちはそれを信じてはいけません。
聖書は、イエス様の再臨がいつかは誰にもわからないけれど、それは誰にでもわかる形で訪れると記されているのです。

② 救われるための条件
続いてイエス様は、再臨はノアの洪水の時や、ソドムとゴモラが滅ぼされた時のように起こると言っています。

17:26 人の子の日に起こることは、ちょうど、ノアの日に起こったことと同様です。
17:27 ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、食べたり、飲んだり、めとったり、とついだりしていたが、洪水が来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。
17:28 また、ロトの時代にあったことと同様です。人々は食べたり、飲んだり、売ったり、買ったり、植えたり、建てたりしていたが、
17:29 ロトがソドムから出て行くと、その日に、火と硫黄が天から降って、すべての人を滅ぼしてしまいました。
17:30 人の子の現れる日にも、全くそのとおりです。

世界規模の洪水が起こる時も、ソドムとゴモラに火と硫黄が降った時も、人々はぎりぎりまでそんな事が起こるなど考えもせず、日常生活を送っていました。
その中で、ノアとロトはどうして救われたのでしょうか?
彼らの共通点は、良い人間だった事・・・ではありませんでした。
ノアは後に酒に酔って裸で寝ている所を息子に見られ、呪いました。
ロトは暴漢に対して娘を差し出してしまいました。
彼らはともに不完全であり、他の人たちと同じように罪人でした。
しかし、彼らは神様に従ったのです。
ノアは神様に従って箱舟を作り、それに乗りました。
ロトは御使いに導かれて町から出ました。

私たちが神の国に入るために与えられている条件も同じです。
神の国に入るために、神様の御心に適った良い人間になる必要があったとしたら、私たちは誰も神の国に入る事は出来ないでしょう。
でも私たちは、神様に従ってイエス様という救い主を信じ、受け入れ、ともに歩む時、その救いにあずかる事ができるのです。

③ ひとりは取られ、他の一人は残される
イエス様は、続けてこの様に言っています。

17:31 その日には、屋上にいる者は家に家財があっても、取り出しに降りてはいけません。同じように、畑にいる者も家に帰ってはいけません。
17:32 ロトの妻を思い出しなさい。
17:33 自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い、それを失う者はいのちを保ちます。

この状況を通して、二つの事を考える事ができます。
ひとつは、終末のさなかにも、人々は日常生活を送っていたという事です。
終わりの時が来るからと言って、仕事なんて辞めて、礼拝だけをしていればいいという事を、神様は求めていません。
もうひとつは、世に未練を持って生きてはならないという事です。
この世の物や出来事、人との繋がりというものに捕らわれ過ぎて神様から離れてしまうという事が起こります。
ロトの妻はせっかく滅びの町から出る事が出来たのに、ソドムでの生活と別れがたくなって後ろを振り返り、そのために塩の柱となってしまいました。
私たちがこの世の事から離れる事が出来ず、振り返る事で、つまずき、救いを失ってしまう事もあるという事を、私たちは重く受け止める必要があると思います。

イエス様はこの様に続けています。

17:34 あなたがたに言うが、その夜、同じ寝台でふたりの人が寝ていると、ひとりは取られ、他のひとりは残されます。
17:35 女がふたりいっしょに臼をひいていると、ひとりは取られ、他のひとりは残されます。」

誰が救われ、誰が救われていないかという事は、外から見ていてもわからないものです。
しかしイエス様がもう一度この地上に来られる時、それが明らかにされます。
天の御国が来るという事は、救われている人たちにとっては喜びの時ですが、救われていない人たちにとっては恐ろしい裁きの時です。
それがこのようにして、はっきり分けられる時が来るのです。

その恐ろしい現実に震え上がるようにして、弟子たちはイエス様に尋ねます。

17:37 弟子たちは答えて言った。「主よ。どこでですか。」主は言われた。「死体のある所、そこに、はげたかも集まります。」

死体のある所にはげたかが集まるように、霊的に死んだ人々のところには裁きがあるとイエス様は言っています。
それを考えると、恐ろしさに身が震えるようですね。
条件さえそろえば、イエス様はいつでも戻って来られるのです。
しかも、聖書に記されているイエス様再臨のための条件は、もう揃ってしまっています。
まさに、いつ再臨があってもおかしくないのが現状なのです。

私たちは、準備が整っているでしょうか?
人の子の日は、もう間近に迫っています。
必要なのは、神様との生きた関係です。
私たちの周りにいる一人でも多くの人たちを、イエス様の元へと導こうではありませんか。

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