ルカ17:11-19 『ルカ83 人生を変えるための3つの条件』 2016/11/19 松田健太郎牧師
ルカの福音書17:11~19
17:11 そのころイエスはエルサレムに上られる途中、サマリヤとガリラヤの境を通られた。
17:12 ある村に入ると、十人のツァラアトに冒された人がイエスに出会った。彼らは遠く離れた所に立って、
17:13 声を張り上げて、「イエスさま、先生。どうぞあわれんでください」と言った。
17:14 イエスはこれを見て言われた。「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」彼らは行く途中できよめられた。
17:15 そのうちのひとりは、自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、
17:16 イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリヤ人であった。
17:17 そこでイエスは言われた。「十人きよめられたのではないか。九人はどこにいるのか。
17:18 神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。」
17:19 それからその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直したのです。」
今日から、場面が少し変わります。
ガリラヤにいたイエス様は、エルサレムに向けて最後の旅を始めていました。
安息日も近づいていましたから、エルサレムに向けて旅する人たちは他にもたくさんいたかもしれません。
サマリヤとガリラヤの間にある道は、そんな旅人たちが行き交うルートでした。
サマリヤと言えば、もともとは北イスラエルの首都があった地域ですが、アッシリア帝国の支配によって外国人と混血になってしまった人たちが住む地域です。
サマリヤの人々はイスラエルの神様を忘れ、他民族の宗教と混ざった独自の信仰を持っていました。
そのため、イスラエルの純血を守ってきたユダヤ人とは仲が悪く、関係は断絶状態。
殺し合いになる事も少なくはありませんでした。
17:11 そのころイエスはエルサレムに上られる途中、サマリヤとガリラヤの境を通られた。
と、この個所では書いています。
しかしルカの福音書を見ていると、イエス様はこの前にもっとエルサレムに近づいていたにも関わらず、後戻りしてここに来たという事がわかるんです。
イエス様はなぜ、わざわざ道を引き返してまでここに来たのでしょうか?
それは、ここで出会うべき人たちと出会うためでした。
そこには、ツァラアトを患った10人の人たちがいたのです。
今日は、このツァラアトに冒された10人から、人生を変えるための3つの条件について学んでいきたいと思います。
① 変わる事をイエス様に求める
さて、本題に入る前に明確にしておかなければならない事があります。
ツァラアトとはどんな病気でしょうか?
聖書によっては“らい病”と訳されていたり、“重い皮膚病”という言葉が使われていたりしますが、実際は何なのかという事はわかりません。
しかし、聖書に書かれている様子から、これが不治の病であり、感染力のある皮膚病だったことがわかります。
しかし、ユダヤ人たちにとって、ツァラアトは単なる皮膚病ではありませんでした。
誰にでもかかる可能性があり、感染力を持ち、人生を台無しにしてしまうこの病気は、“罪”と“罪がもたらす結果”を象徴していたのです。
だから、ツァラアトであると判断された人たちは、『けがれている』と表現され、癒されることは『きよめられる』と表現されました。
けがれている人は他の人に接触すると、病気に感染しなくても“けがれ”がうつってしまいます。
だから彼らは、他の人たちから隔離された生活を送らなければなりませんでした。
そして、ツァラアトに感染していない人たちの近くに行く時は、「自分は汚れている」と宣言しなければならなかったのです。
だから彼らは、イエス様に話しかける時にも遠くから、声を張り上げているのです。
ツァラアトになるという事は、非常にみじめで、屈辱的で、孤独な生涯を強いられるという事でもあったのです。
ここには10人のツァラアト患者がいました。
しかも、本来仲が悪いはずのユダヤ人とサマリヤ人が一緒にいたのです。
もしかすると、ツァラアトの患者が集まる村だったのかもしれませんね。
ツァラアトという病気になった彼らは、身を寄せ合うようにしてここに集まっていたのかもしれません。
他にもツァラアトの人たちがいたのかもしれませんが、イエス様のもとに来たのはサマリヤ人を含むこの10人でした。
この10人は、藁をもつかむような思いで、イエス様に救いを求めたのです。
そしてそれが、彼らの人生を変える大きな転機となりました。
そう、人生を変えるための1つ目の条件は、「変わる事を神様に求める」という事です。
罪のけがれ中にあるのは、もちろんツァラアトの人たちだけではありません。
私達もまた、神様から離れ、けがれ、その中で苦しんでいるかもしれません。
しかし、その状況に絶望して嘆いているだけでは、何も変わりません。
私たちは救いを求め続けましょう。
そこに、イエス様が来てくださいます。
そして、イエス様に助けを求める時、私たちの人生には変化が起こるのです。
② イエス様に信頼し、従って、行動する
さて、彼らはこのようにイエス様のもとに行き、救いを求めました。
17:13 声を張り上げて、「イエスさま、先生。どうぞあわれんでください」と言った。
するとイエス様は、すぐにこのように答えたのです。
17:14ab イエスはこれを見て言われた。「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」
イエス様はどうして、『祭司に見せなさい』と彼らに言ったのでしょうか?
それは、律法に定められていた事だったからです。
ツァラアトが癒された場合、祭司がそれを確認し、癒されたと認定されれば、彼らは元の生活に戻る事が出来たのです。
しかし、ここで注目する必要があるのは、彼らが祭司のもとに向かった時、ツァラアトはまだ癒されていなかったという事です。
14節はこのような言葉に続いています。
17:14c 彼らは行く途中できよめられた。
もしも彼らが、「ばかばかしい」と思って祭司のもとに行かなかったら、彼らは癒されなかったのではないでしょうか?
彼らは信じて、行動したから、癒されたのです。
そこで、人生を変えるための2つ目の条件は、「イエス様を信じ、従って、行動する」という事です。
私たちは、辛いとき、苦しいときに神様に求めます。
しかし、本当に神様を信じ、信頼しているでしょうか?
本当に信じているなら、神様の導きを求めるはずです。
そして、神様に従って、実際に行動を起こすのではないでしょうか?
神様の導きは、先の事がわからない私たちには、時としてばかばかしい事のように見えたり、不可能だと思う事もあります。
しかし、従って行動するのでなければ、私たちがそこに神様が起こして下さる奇跡を経験する事はありません。
そのような場面にこそ、私たちの神様への信頼が明らかになるのです。
③ 神様の恵みに感謝する
さて、イエス様に助けを求め、信じて行動した10人は癒されました。
しかしその10人の中で、ひとりだけは方向転換すると、イエス様のもとに戻っていきました。
17:15 そのうちのひとりは、自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、
17:16 イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリヤ人であった。
彼は、イエス様がして下さった事があまりにも嬉しくて、居ても立ってもいられなくなってしまったのです。
そこで彼は、イエス様がどこかに行ってしまう前に、慌てて戻ってきたのです。
そしてけがれがきよめられた彼は、イエス様の足元にひれ伏して感謝をしたのです。
私たちは嬉しい時、自然に声が大きくなり、感情的になってしまうのではないでしょうか。
賛美や感謝というものは、そのようにして自然にあふれ出てくるものなのです。
しかし、そこまでの喜びを表現したのは、真の神様への信仰を失ったと言われていたはずのサマリヤ人だけでした。
同じように癒された他の9人のユダヤ人たちは、癒されたことを喜びはしたものの、イエス様のもとに戻って来ることはなかったのです。
彼らが戻ってこなかったからと言って、再びツァラアトに冒されたという事はなかったでしょう。
しかし彼らの変化は、癒されて、そこで終わりでした。
戻ってきたこのサマリヤ人はそうではありません。
ここから、彼の信仰生活が始まったのです。
彼の人生は、ここからイエス様とともに歩む人生へと変わりました。
恐れと律法が支配する人生ではなく、神様への愛と、感謝と、喜びに満たされた人生です。
生きた本当の信仰が、そこにはあったのです。
神様は、様々な所で私たちの人生に関わり、救いの手を伸ばしてくださいます。
しかし、多くの人はそこに神様の働き、素晴らしい愛や恵みに気づいていません。
あるいは、それが当たり前の事であるかのようにさっかくして、感動もなくやり過ごしてしまいます。
それでは、どれだけ素晴らしい神様の奇跡を経験したとしても、その喜びを半分も味あう事が出来ていないのです。
私たちの人生を変える3つ目の条件は、「神様の愛を喜び、その働きに感謝する事」です。
私たちは、すでに与えられているたくさんの宝を、どれほど見過ごしてしまっている事でしょうか?
私たちが、その宝に気づくだけでも、人生がひっくり返るほどの喜びに満たされる事でしょう。
そして日々、そのような神様の愛を受け取っていくならば、私たちの人生は心から喜びにあふれた人生へと変えられていくのです。
皆さんが、そのような人生を歩むことができますように。
祈りましょう。