ルカ17:5-10 『ルカ81 役に立たないしもべの信仰』 2016/10/30 松田健太郎牧師

ルカの福音書17:5~10
17:5 使徒たちは主に言った。「私たちの信仰を増してください。」
17:6 しかし主は言われた。「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に、『根こそぎ海の中に植われ』と言えば、言いつけどおりになるのです。
17:7 ところで、あなたがたのだれかに、耕作か羊飼いをするしもべがいるとして、そのしもべが野らから帰って来たとき、『さあ、さあ、ここに来て、食事をしなさい』としもべに言うでしょうか。
17:8 かえって、『私の食事の用意をし、帯を締めて私の食事が済むまで給仕しなさい。あとで、自分の食事をしなさい』と言わないでしょうか。
17:9 しもべが言いつけられたことをしたからといって、そのしもべに感謝するでしょうか。
17:10 あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい。」

皆さんは、何か良い話を耳にした時、どんな反応をしますか?
ある方たちは、「自分もそうしよう」と考えて、何とか実行に移そうとします。
他の方たちは、「いい話だけど、生き方を変えることはできない。自分にはムリだ」と思ってあきらめてしまうかもしれません。

イエス様の弟子たちは、何とかそれを実行したいと思った人たちでした。
イエス様の言葉を聞いて、それに従いたい、そのように生きたいと思ったのです。
でも問題なのは、イエス様の言葉は、時として実行不可能なほど困難だという事です。

「あなたの敵を愛しなさい。」という言葉を聞いて、私たちは感動します。
しかし、それを実際に行動できる人はどれくらいいるでしょう?
私たちは、このようなイエス様の言葉と、どのように向き合えばよいのでしょうか?

① 信仰は量ではなく質
さて、イエスさはこの時どんな話をしていたでしょうか?
先週の復習になりますが、「他の人たちの信仰をつまずかせてはならない。むしろ神様と繋げなさい。」というのが、この時イエス様が話していた事のポイントでしたね。
そしてその話の中で、イエス様はこのように言いました。
「自分に罪を犯す人を赦しなさい。たとえ1日に7回罪を犯しても、悔い改めるなら、そのたびに赦しなさい。」

自分に悪い事をした人を何度でも赦すという事はとても難しい事です。
1度や2度でも難しいですが、1日に7度も罪を犯し、そのたびに赦すというのは、簡単な事ではありません。
しかもそれは、「7度までは赦しなさい」という意味ではなく、いくらでも際限なく赦しなさいという意味だったわけです。

皆さんは、この話を聞いてどう思ったでしょうか?
弟子たちは、「とてもできる事ではない」と思いました。
そこで弟子たちは、イエス様に言ったのです。
「私達では到底できそうにありません。どうか私たちの信仰をもっと増やして下さい。」

その気持ちはとてもよくわかります。
「それを実行するためには、信仰がもっと必要だ、自分には信仰が足りない」と思ったわけです。
ところがイエス様は、このように答えました。

17:6 しかし主は言われた。「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に、『根こそぎ海の中に植われ』と言えば、言いつけどおりになるのです。

桑の木は、根が深く張る木として知られていた木でした。
その根を掘って抜くのは大変な事です。
でもイエス様は、別に桑の木の話をしたかったわけではありません。
信仰があれば、不可能な事はないという話しをしたかったのです。

そのための信仰は、からし種ほどでいいのだとイエス様は言いました。
からし種というのは、ごみのように小さな種です。
しかし、ごみではありません。
ただのごみでは小さいだけですが、からし種は育てば、鳥が巣を作るほどに大きくなる。
本当に大切なのは、その信仰の量ではなく、質です。
イエス様は、それが生きた本当の信仰かどうかという事が大切だと答えたのでした。
それでは、生きた本当の信仰とはどういうものでしょうか?

② 無益なしもべのたとえ
1イエス様は、続いてこのようなたとえ話をしています。

7:7 ところで、あなたがたのだれかに、耕作か羊飼いをするしもべがいるとして、そのしもべが野らから帰って来たとき、『さあ、さあ、ここに来て、食事をしなさい』としもべに言うでしょうか。
17:8 かえって、『私の食事の用意をし、帯を締めて私の食事が済むまで給仕しなさい。あとで、自分の食事をしなさい』と言わないでしょうか。
17:9 しもべが言いつけられたことをしたからといって、そのしもべに感謝するでしょうか。

しもべというのは、奴隷のことですね。
しもべは、主人の命令をひたすら聞いて、従います。
その時に誰かがやらなければならないから給仕をした、という対等の関係ではありません。
しもべは働くのが当たり前であり、報酬を受ける事も、感謝するという事もない。
それと同じように、創造主である神様が私たちの主であり、私たちはしもべです。

だからイエス様は、続けてこのように言いました。

17:10 あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい。」

このように、神様を主とし、しもべとして生きる信仰が、生きた本当の信仰なのだと、イエス様は言っているのです。

さて、このように言うと、クリスチャンの生き方とは、神様にこき使われて、何の喜びもない奴隷生活のような気がしてくる方もいらっしゃるかもしれません。
でもそれは、主人が誰かによって変わるものなのです。
私たちが神様の救いを受ける前、悪魔の奴隷だったころには酷い状態だったでしょう。
私たちは罪と恐怖で縛られ、自由もなく、『人生とはこんなものだ』というあきらめの中で生きていました。
しかし神様は、そんな私たちを罪の鎖から解き放ち、自由を与えたのです。
私たちは、いやだけど奴隷だから、仕方がなく仕えるのではありません。
私たちを愛し、私たちを赦し、私たち生かし、解放してくれた神様のために、喜びをもって仕えているのです。

③ 神様のしもべ
では、イエス様はなぜこのような話をしたのでしょうか?
この話のポイントはどこにあるのでしょう?
重要なのは、神様との関係性です。
神様が主なのであり、私たちはしもべでしかないのだという事が大切なのです。

しもべは、主人の役に立つために一生懸命に仕えます。
では、しもべは自分のお金を使って主人の役に立とうとするでしょうか?
いいえ、主人のお金を使って主人に仕えているのです。

私たちは、何だか自分が持っているものを犠牲にして、自分の力を使って神様に仕えていると思ってはいないでしょうか?
私たちが自分の持っているもので神様に仕えるなら、乏しい私たちにできる事は何もありません。
そのくせ、自分の行いを誇り、それに対する報酬を求めるようになるでしょう。
でも、私たちは自分の力で神様のために働きなさいと言われているのではなく、しもべとして、神様が与えて下さっているものを使って働くのです。

もっと言うなら、私たちが自分のものだと思い込んでいるものも、本当はすべて神様のものです。
能力も、性質も、時間やお金だって、実はすべて神様のものです。
私たちが、自分を中心とするのではなく、神様を中心とするところに、生きた本当の信仰があります。
イエス様は、そういう話をしているのです。

誰かを赦すという事も、愛するという事も、時として不可能だと思えるほど難しい事を、神様は私たちに命じます。
人に福音を伝え、救いに導き、弟子とするという事だってそうです。
私たちが自分の裁量で、自分の力ですべてをやろうとするなら、私たちはできない自分に絶望するか、他の人たちと比べてましな自分を誇って傲慢になるかどちらかでしょう。

でも、私たちは『役に立たないしもべ』なのです。
私たちは、神様の力で、神様に任されたことを、神様と共にするだけです。
私たちはそれを誇る事なんてできるはずがありません。
しかし、神様が私たちの中に生きて下さり、神様の力がそこに臨む時、私たちは神様が私たちを使って素晴らしい御業を起こして下さるのを、見る事もできるのです。

私たちは、そのようなしもべとして生きる、生きた信仰の中にいるでしょうか?
それによって、はじめて可能な事がたくさんあります。
いや、神様が私たちの内で生き、働いてくださるのでなければできない事が、たくさんあるというのが本当のところです。
そのような、しもべの信仰、からし種の信仰を求めて祈りましょう。

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