ルカ17:1-6 『ルカ80 つまずきからの回復』 2016/10/23 松田健太郎牧師
ルカの福音書17:1~6
17:1 イエスは弟子たちにこう言われた。「つまずきが起こるのは避けられない。だが、つまずきを起こさせる者はわざわいだ。
17:2 この小さい者たちのひとりに、つまずきを与えるようであったら、そんな者は石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。
17:3 気をつけていなさい。もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。そして悔い改めれば、赦しなさい。
17:4 かりに、あなたに対して一日に七度罪を犯しても、『悔い改めます』と言って七度あなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」
さて、今日からルカの福音書は、また新しい章に入ってきます。
章は変わりますけど場面は変わらず、14章くらいイエス様がパリサイ派のユダヤ教徒に話したり、弟子たちに話したりという状況が繰り返されています。
話の内容はだんだん前後のつながりが無くなってきましたが、今日のところでイエス様は弟子たちに話しています。
イエス様はどんな話をしようとしているのでしょうか?
① つまずきを起こす罪の重さ
最初はつまずきに関しての教えですね。
この様に書かれています。
17:1 イエスは弟子たちにこう言われた。「つまずきが起こるのは避けられない。だが、つまずきを起こさせる者はわざわいだ。
17:2 この小さい者たちのひとりに、つまずきを与えるようであったら、そんな者は石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。
ここに出てくる「つまずき」というのは、教会用語のひとつですね。
特に教わらなくても、ほとんどの人が何気なく使っているように思います。
しかし間違って理解している可能性もありますから、まずは意味から確認していきましょう。
「つまずき」という言葉は、元々「わな」とか「障害物」を表す言葉で、そこから転じて「罪に誘惑するもの」という意味がありました。
皆さんの中には、この言葉を「罪への誘惑」と訳している聖書をお持ちの方もいらっしゃるかもしれません。
パワーポイントでも、Today’s English Versionの聖書では、「罪に陥らせる」という言い回しになっていますね。
そうすると、「もっと悪い事をしようぜ」と誘惑している人をイメージするかもしれませんが、ちょっと違うかもしれません。
罪の本質は行いの部分ではなく、神様との関係が壊れた状態の事です。
つまり、神様との関係や信仰から遠ざかってしまう事を、「つまずき」と呼んでいるのです。
クリスチャンとして問題なく信仰生活を送っていた人が、ある日突然つまずいてしまうという事があります。
どうしたのだろうかと思いますが、イエス様は『つまずきが起こるのは避けられない』事だと話しています。
誰かがつまずいてしまう事は悲しい事ですが、驚くべきことではないというわけです。
人間関係がつまずきを与えてしまう事があります。
また、悪魔や悪霊の働きによってつまずく事もあります。
イエス様ご自身が、「つまずきの石、妨げの岩」と呼ばれているように、イエス様につまずいてしまう人もいます。
そしてそれは多くの場合、その人自身の信仰の問題によって起こるつまずきなのです。
しかし、「この小さな者たちをつまずかせる者は、大きな罪を犯したことになる」とイエス様は言います。
小さな者たちをつまずかせているのは誰でしょう?
これまでの話の流れから、それはパリサイ派のユダヤ教徒たちを始めとする宗教者たちの事を意味している事がわかりますね。
彼らは貧しい人々や律法を守れない人々をさげすみ、自分たちの勝手な解釈で律法を押し付けて、神様との関係につまずきを与えました。
イエス様は、『そんな者は石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。』とさえ言っているのです。
皆さん、石臼はご存知でしょうか?
穀物を挽いたり、この地域ではオリーブをすり潰して油を抽出するために使われていた重い石です。
それを首に括り付けられて海に沈められた、おぼれて死んでしまいます。
ヤクザのリンチですね。
こういう事は、ユダヤの文化の中でもしばしば起こる事だったようです。
リンチされておぼれ死ぬ事を考えると、こんな死に方はしたくないと思ってしまいます。
しかし、人々をつまずかせた事によって裁きを受けるよりは、こういう死に方をした方がまだましだとイエス様は言うのです。
人につまずきを与える事は、それ程までに重い罪なのです。
② つまずきのおそろしさ
それにしても、つまずきを起こすことがどうしてそれほどひどい事なのでしょうか?
人を殺すとか、盗むとか、傷つけるとか、姦淫するとか、そういう罪の方がよほど重大な罪ではないでしょうか?
しかしイエス様は、そのような犯罪とは比べ物にならないくらい、人をつまずかせることが重い罪だと言うのです。
なぜなら、神様との関係を壊す事は、悪魔の手助けをするようなものだからです。
同じ出来事について書いているマタイの福音書では、つまずきの恐ろしさと深刻さがより詳細に話されています。
マタイ 18:8 もし、あなたの手か足の一つがあなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい。片手片足でいのちに入るほうが、両手両足そろっていて永遠の火に投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。
18:9 また、もし、あなたの一方の目が、あなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい。片目でいのちに入るほうが、両目そろっていて燃えるゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。
つまずいて、いのちの源である神様から離れてしまうなら、その人は再び滅びの道に戻ってしまう事になるのです。
人を殺しても、その死は一瞬のもので、その人が救われていれば天の御国に行きます。
しかし人をつまずかせるなら、それはその人に永遠の死を与える事になるかもしれないのです。
人をつまずかせるような事をしてはならない。
これは、弟子たちに向かって話されている言葉ですが、その場にいたパリサイ派の人たちに向けられた厳しい忠告でもあるのです。
③ 赦しを通して、神様とつなぐ
さて、つまずきを起こさせるような人々がいる一方で、弟子である私たちはその反対の事をするように命じられています。
イエス様はこのように言っています。
17:3 気をつけていなさい。もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。そして悔い改めれば、赦しなさい。
17:4 かりに、あなたに対して一日に七度罪を犯しても、『悔い改めます』と言って七度あなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」
私たちに求められているのは、人を神様とつなぎとめる事です。
もし、誰かが神様から離れようとしているなら、私たちは放っておくのではなく、その人を戒めて、神様との関係を回復する手助けをしましょう。
つまずきは自分の内側から起こるものでもありますから、私たちはこのように、互いに戒め合う必要があるのです。
でも、この「戒める」が難しいですね。
私たちはつい、相手を責めるような態度になってしまいがちです。
しかし私たちは、愛をもって相手と接し、戒める必要があります。
神様と私たちを結ぶものは、愛だからです。
だからここでは、戒めよりも赦しに重点が置かれています。
イエス様が話そうとしている事のポイントは、戒めること以上に「赦すこと」なのです。
赦しは、神様が私たちに示した大きな愛です。
イスラエルの人々が何度神様から離れても、神様は戻って来る彼を赦しました。
イエス様が十字架にかけられた時、裏切って逃げていった弟子たちを、イエス様は赦しました。
私達も、そのような愛で相手と接する事が求められています。
その人たちが1日に7度、私たちに対して罪を犯したとしても、彼らが悔い改めるなら、何度でも赦して受け入れるのです。
1日に7度というのは、8度目は赦さなくていいという話ではありませんね。
私たちは何度でも赦し、受け入れ、神様との関係をもう一度つなぐのです。
つまずきは誰にでも起こることです。
だから私たちは、互いに助け合う事が必要です。
互いに赦し合い、愛し合いながら、励まし合って神様と繋がり続けようではありませんか。
つまずき、回復する事が、さらに他の人たちが神様と繋がり続けるための助けとなるはずです。
祈りましょう。