ルカ16:19-31 『ルカ79 金持ちとラザロ』 2016/10/16 松田健太郎牧師

ルカの福音書16:19~31
16:19 ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。
16:20 ところが、その門前にラザロという全身おできの貧しい人が寝ていて、
16:21 金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。
16:22 さて、この貧しい人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。
16:23 その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。
16:24 彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』
16:25 アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。
16:26 そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。』
16:27 彼は言った。『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。
16:28 私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』
16:29 しかしアブラハムは言った。『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』
16:30 彼は言った。『いいえ、父アブラハム。もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません。』
16:31 アブラハムは彼に言った。『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」

時として、理解するのがとても難しい聖書ですが、今日の個所も理解する事が少し難しい個所のひとつです。
まず確認しておいた方が良いのは、これはイエス様がしたたとえ話だという事です。

もうひとつ、この話が間違えて解釈されやすいのは、前後関係を無視してこの話を理解しようとするからです。
一部だけを切り取って理解するのではなく、前後関係から文脈を読み取るという事が聖書を解釈していく上でとても大切なポイントです。
多くの牧師たちでさえよく間違えてしまう事ですから、気を付ける必要がありますね。
さて、このたとえ話は、どういう話の流れでされた話だったでしょうか?
それは、イエス様がパリサイ派の人たちと話していたところから始まります。

パリサイ派の人たちは、貧しい人々や、罪人、汚れた人々をバカにしていました。
彼らは、神様に祝福されている人は経済も祝福されると信じていたからです。
そして、そんな人々と共に食事をし、『神と富の両方に仕える事は出来ない』と言うイエス様を嘲笑ったのです。
その話の流れから、今日の話を読み取っていきましょう。

① 明暗を分けた人生
さて、このたとえ話にはふたりの登場人物が出てきます。
ひとりは金持ち、もうひとりは貧しく重い皮膚病を患った男で、ラザロという名前が付けられています。
話の流れからすると、この金持ちはパリサイ派の人々を表している事になります。
問題はラザロの方です。
何が問題なのかというと、イエス様がたとえ話の中で名前のある人物を登場させたのは、このラザロしかいないからです。
他のどのたとえ話にも名前のある人物は登場しないのに、この人物にだけは名前が付けられているのです。
イエス様はどうして、ラザロという名前がついた人を登場させたのでしょうか?

ラザロという名前を調べてみると、『神は助ける』という意味の名前だということがわかります。
そこで、このラザロという人は、神様の助けを切に求める人として登場していると解釈することができます。
彼は非常に貧しく、全身におできができていて、いつも飢えていて、犬がやってきてはそのおできを舐めているという、これ以上にないほど悲惨な状態にありました。
神様の助けなしには、生きていく事の出来ない人だったのです。

やがて金持ちは何不自由ない贅沢な生涯を終え、ラザロは悲惨な生涯を終えます。
しかし、そこから大逆転が起こるわけです。
貧しく辛い人生を送ったラザロは、“アブラハムのふところ”と呼ばれる、素晴らしい天の御国に行くことができました。
一方で金持ちは、ハデス(黄泉)と呼ばれる地獄の苦しみの中に投げ込まれてしまったのです。

この話を通して、私たちはひとつ間違えてはならない事があります。
この話のポイントは、金持ちが金持ちだったからハデスに落とされ、ラザロは貧乏で苦しい人生を送ったから天国に行ったという話ではないという事です。

ラザロは、神様に頼るしかない人生を通して築かれた、神様との関係によって天の御国に行きました。
一方で金持ちは、自分本位で神様など求めない生き方をしていたために、神様のいないハデスへと行く事になったのです。
「人は、神と富の両方に仕える事は出来ない」とイエス様は言いました。
金持ちはまさに、神様に仕えるのではなく、富に仕える人生を送ったのです。

② 富に仕える人生
この話の二つ目のポイントは、天国と地獄の間は行き来する事ができないという事です。
金持ちは、アブラハムに懇願します。

16:24 彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』

しかしアブラハムは、それはできないというわけです。

私たちが死んだ後、神様がいるところに行くためには、この命がある内に神様と出会い、神様との関係を築く必要があります。
生きている間に神様とともに歩むなら、死んだ後も、その関係は永遠に続きます。

しかし、神様を求めることなく、自分本位な生き方で生涯を生きるなら、死んだ後に神様を求めてもそこに神様はいません。
神様がいない世界で、その時になってから悔い改めても、そこから天の御国に入る事はできないのです。

このたとえ話を通して、イエス様は「悔い改めるのは今です」と、パリサイ派の人たちに伝えているわけですね。


さて、このたとえ話の第三のポイントは、信じる心がどこから生まれてくるかということについてです。
地獄の炎で焼かれる苦しみの中で、金持ちはアブラハムに一つの事を願います。
それは、まだ生きている5人の兄弟たちにラザロを送って、自分と同じところには来ないように忠告してほしいという事でした。

兄弟たちは自分と同じ道を歩んでいる。
このままでは、自分と同じように滅びの道を歩み続けるだけだろう。
でも、ラザロが生き返って兄弟たちにこの事を証言するなら、彼らはきっと悔い改めるに違いないと思ったのです。

アブラハムは答えます。
「彼らは聖書を持っているでしょう。それに従えば、彼らがそんなところに来ることはありません。」
金持ちはさらに食い下がります。
「いや、聖書だけでは十分ではありません。でも、誰かが死人の中から生き返るのを見たら、彼らは悔い改めるかもしれません。」
しかしアブラハムはこう答えるのです。
『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』

さあ、ここである人たちは、このたとえ話に出てくるラザロという名前にハッとさせられたのではないかと思います。
ラザロという人は、実際にいた人の名前でした。
ラザロは、マルタとマリヤの兄弟で、一度死んだのをイエス様によって蘇らせられた人だったのです。
この話はルカの福音書では触れられていないのですが、これは当時よく知られていた事だったのだと思います。
ラザロが実際に生き返った時、人々はどのように反応でしたでしょうか?

ある人たちは確かに、それを見て信じたと書かれています。
しかし、ラザロが生き返えっても、それを受け入れようとはしない人たちがいました。
それがパリサイ派の人々だったのです。
彼らはその出来事を知ってむしろ、この奇跡をおこなったイエス様と、蘇ったラザロを殺すべきだと考えたのです。

「奇跡を見たら信じるのに」という人はたくさんいます。
しかし、神様はなぜかそういう人たちに奇跡を見せません。
それは、奇跡を見ても信じないからです。
もし見る事があっても、それが奇跡であることに気が付かなったり、何とか科学的な理由をつけてそれを信じようとしません。
私たちはそんな一瞬の出来事よりも確かな、神様の言葉を持っています。
聖書に書かれている事そのものが奇跡であり、それで十分なのです。
その聖書を読んで、それでも信じようとしないなら、その人の心は閉ざされてしまっているのだから、何をしても信じる事はないのだと、イエス様は言っているのです。

神様は、奇跡を起こします。
その事に疑いはありません。
でも私たちが気を付けなければならないのは、奇跡は私たちが信じるためにあるのではないという事です。
奇跡が起こるから信じるというのであれば、奇跡がやめば、信仰もなくなってしまうでしょう。
神様は必要に応じて、必要な時に奇跡を起こされるのです。

私たちは特別な体験だけを求めてしまってはいないでしょうか?
私たちが信じるのは奇跡的な体験ではなく、神様であるはずです。
そこに不思議な体験があろうとなかろうと、神様は私たちとともにおられることに間違いはありません。
そして、私たちが信じるところに奇跡は起こるのです。

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