ルカ16:14-18 『ルカ78 神の義VS人の正しさ』 2016/10/09 松田健太郎牧師

ルカの福音書16:14~18
16:14 さて、金の好きなパリサイ人たちが、一部始終を聞いて、イエスをあざ笑っていた。
16:15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、人の前で自分を正しいとする者です。しかし神は、あなたがたの心をご存じです。人間の間であがめられるものは、神の前で憎まれ、きらわれます。
16:16 律法と預言者はヨハネまでです。それ以来、神の国の福音は宣べ伝えられ、だれもかれも、無理にでも、これに入ろうとしています。
16:17 しかし律法の一画が落ちるよりも、天地の滅びるほうがやさしいのです。
16:18 だれでも妻を離別してほかの女と結婚する者は、姦淫を犯す者であり、また、夫から離別された女と結婚する者も、姦淫を犯す者です。

皆さんは、自分が正しいと思っていますか?
“自分が正しいと思っている事”は、ある程度私たちには必要なものです。
正しいと思っていなければ、私たちは何も行動する事は出来ないし、人に何かを勧める事もできないでしょう。
しかし、私たちが正しいと思っている事が、私たちを返って間違った方向に向かわせてしまう事もあるのです。

パリサイ派のユダヤ人たちは、宗教にとても熱心な人たちでした。
彼らは律法を守っていましたし、定められていた祈りの時を守り、施しもしました。
献金も捧げものも、必ず十分の一を捧げていました。
一見すると、聖書の言葉を完璧に実践している正しい人たちのようです。
実際に、本人たちを含め、多くの人たちがそう思っていたので、誰もパリサイ派の人々には逆らう事ができませんでした。
しかしイエス様は、自らを正しいと信じる彼らの問題を明らかにしていきます。
誰からも正しいと思われるようなパリサイ派の人々の問題とは、一体何でしょうか?

① 外見で判断するパリサイ人
第一の問題は、彼らが表面的な部分だけで、人を判断しようとしていたという事です。
だから彼らは、貧しい人たちとともにいるイエス様を見下していました。
下に見るという態度だったパリサイ派の人々は、イエス様の言葉に耳を傾けるのではなく、最初からバカにする態度で話を聞いていたのです。

16:14 さて、金の好きなパリサイ人たちが、一部始終を聞いて、イエスをあざ笑っていた。

パリサイ派の人々は、なぜイエス様の話を聞いて嘲笑ったのでしょう?
それはイエス様が、「富と神様の両方に仕える事は出来ない」という話しをしていたからです。

パリサイ派の人々は、神様から愛され、祝福されるなら経済的にも豊かになるはずだという事を信じ、教えていたからです。
彼らの多くは中産階級に属し、それなりに豊かな生活をしている人々でもありました。
その一方で、イエス様もその周りに集まる人々も、貧しい生活をしていました。
パリサイ派の人々は、イエス様たちの貧しさを見て、最初から自分たちの方が神様に愛されている、優れた人間だと考えて、イエス様たちを見下していたのです。

私たちはどうも、外見で人を判断してしまう傾向があります。
『人は見た目が9割』という本がコンビニで並んでいるくらいです。(笑)
その人が世間的に見て、どれだけ優れているか、どういう学歴や肩書を持っているか、金持ちか、そうでないかなど、すべて外側の情報だけで人を判断しようとしているのです。
しかし、外見だけで判断しようとしていたために、人々はそこにいるイエス様が救い主だという事に気が付くことができませんでした。
そして、被造物でしかない人間が、創造主である神様を嘲笑うという、全く身の程知らずな状況になってしまったわけです。

パリサイ派の人々は、神様を侮っていたわけではありません。
救い主を信じていなかったわけでもありませんでした。
しかし、表面的な所ばかり見て余計な情報に惑わされたために、見るべきものを見ていないという事が起こってしまうのです。
私達も、偏見を持たないで人を見ていかないと、大切な事を見失ってしまうかもしれませんね。

② 自己義認
さて、パリサイ派の人々の第二の問題は、自分を正しいとしていたという事です。
イエス様は、彼らにこのように言っています。

16:15b 「あなたがたは、人の前で自分を正しいとする者です。

何か正しい行いをすることなどによって、自分を正しい者としようとする事を、少し難しい言葉で『自己義認』と言います。
「自分は正しい者だと、自分で勝手に認識している」という事ですね。
律法を守ったり、宗教的に善い行いをする事によって、自分は正しい人間だと思い込んでいるのです。
しかし、すべての人は神様から離れた罪人だというのが、聖書の教えている所です。
罪人である私たちは、自分が正しいと思っている事をどれだけ頑張って行ったとしても、それによって罪がなくなって正しい人間になる事はありません。
『自己義認』は、自分が罪人である事を否定する事であり、つまりイエス様の十字架による救いを否定する事でもあるのです。

それでは、彼らの行いはどれくらい正しい事だったのでしょう?
確かに彼らは、律法を守り、善行を行い、熱心な信仰によって人々からの尊敬も集めていました。
しかし彼らの熱心さとは、人前でわざわざ目立つように大声で祈ったり、律法も自分たちに都合がいいように解釈して、表面的な部分を守っていただけに過ぎません。
人を表面的な事だけで判断する彼らは、自分自身に関しても、表面的な部分を取り繕う事しか考えていなかったという事です。
だからイエス様は、このように続けているのです。

16:15c,d しかし神は、あなたがたの心をご存じです。人間の間であがめられるものは、神の前で憎まれ、きらわれます。

神様が見ているのは、表面的な行いではなく、私たちの心です。
問題なのは、私たちの心はどうしようもなく汚れてしまっているという事なのです。
そしてそんな私たちが、自分の力で正しくなろうとしても、それは表面的な変化でしかありません。

正しくあろうとする事それ自体は、悪い事ではないように思います。
きよく、正しく、道徳的に生きる事。
聖書の基準に従って、正しさを追求していく事。
しかし、皮肉な事ですが、真剣に取り組むほどに、形だけの信仰になっていくのです。

例え表面的には正しい事をしているように見え、他の人たちから評価され、人気があったとしても、中身が伴っていなければ意味がない。
いや、意味がないどころか、それは『偽善』と言う新たな罪につながる事になります。
そしてそれは、さらに別の罪を生みます。
私達は、他の人たちが正しい事をしていないと言って、裁くようになっていくのです。

律法を守るなど、行いによって正しさを追求していたのは、旧約時代の価値観です。
しかし、旧約の時代は、バプテスマのヨハネまでで終わりました。
これからは、新しい時代、福音の時代なのだと、イエス様は言っているのです。

③ 律法はなくなったか
さて、それでは律法なんてどうでもよくなったという事でしょうか?
私達はもう、何をしても赦されているので、どんな悪い事をしてもオッケーという事でしょうか?
もちろんそうではありません。
イエス様はこう続けています。

16:17 しかし律法の一画が落ちるよりも、天地の滅びるほうがやさしいのです。

律法はなくなりません。
律法は、依然として厳しく私たちの前にあります。
しかも律法によって表されている神様の義は、パリサイ派の人たちが考えているのとは比べ物にならないくらい、ずっと深刻なものです。

例えば離婚の問題を考える時、律法を行う人々は、どんな理由であっても離婚状さえ出せば離婚していいと信じていました。
しかし、神様の正しさはそんなものではありません。

16:18 だれでも妻を離別してほかの女と結婚する者は、姦淫を犯す者であり、また、夫から離別された女と結婚する者も、姦淫を犯す者です。

律法の正しさは、少しも欠けてはいない。
一文字抜けるどころか、文字の一画が落ちる事もない。
イエス様は別の時には、「人を殺すのと、兄弟をバカと言うのは同じだ」と言いました。
そして、実際に行動しなくても、想像しただけで姦淫したのと同じだと言いました。
神様が求めているのは、見せかけの善や自己義認の義ではありません。
これが神の義、神様が求める正しさなのです。

律法という厳しい正しさの光に私たちの心が照らされた時、その光に耐えられる者は誰もいません。
私たちの目の前にあるのは、絶望的な滅びしかないのです。
だからこそ、イエス様の十字架による罪の贖いと、復活による新しい命が必要なのだと、聖書は教えています。
これこそが、神の国の福音です。

真の正しさは、私達は熱心に正しい事を行う事によって・・・ではなく、熱心に罪を認め、神様に立ち返る事によって与えられます。
私たちが福音を受け取る時、イエス様の義が、私たちを覆うからです。

心から福音を求めて、祈りましょう。

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