ルカ15:1-7 『ルカ73 一匹の羊』 2016/08/28 松田健太郎牧師
ルカの福音書15:1~7
15:1 さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た。
15:2 すると、パリサイ人、律法学者たちは、つぶやいてこう言った。「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。」
15:3 そこでイエスは、彼らにこのようなたとえを話された。
15:4 「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。
15:5 見つけたら、大喜びでその羊をかついで、
15:6 帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください』と言うでしょう。
15:7 あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。
今日から始まるルカの15章は、聖書の中でももっとも多くの人たちに知られ、愛されている章のひとつです。
それは、神様の私たちへの思いがもっとも明確に、美しく表されている章だからだと思います。
ここでイエス様は、3つのたとえ話を通して、ひとつの事を話そうとしています。
イエス様は、このような3つで1セットのたとえ話をしばしばするんです。
今回の話は、パリサイ派の人たちとの対話の中から出てきた話でした。
パリサイ派の人たちは、イエス様が取税人や罪人たちといつも一緒にいるのを見て、眉をひそめていました。
取税人というのは、税金を集める人たちですね。
当時のユダヤはローマ帝国の支配下におかれ、辛うじて自治権が認められている状態でした。
その代わり、多大な税金を支払う事が求められていたんですね。
その税金を集めるのが取税人です。
彼らはユダヤ人たちからすれば裏切者、ローマ帝国の犬でした。
普通のユダヤ人が取税人と仲良くするなどという事はあり得ない事だったのです。
また、ここで言われている罪人というのは、律法を守らない人たちのことです。
例えば、いつも放浪しているために礼拝を守る事ができない羊飼いたちも、罪人とされていました。
そして、罪人と一緒にいると汚れると考えていたパリサイ派の人たちにとって、イエス様がこのような罪人とたちと一緒にいるというのは信じられない事だったのです。
ましてや、食事をともにするなどという事はとても親密な関係であり、仲間であるという事を意味していましたから、あり得ない事だと思ったのです。
そんな時にイエス様が話したのが、有名な失われた一匹の羊の話しだったわけです。
① 1匹のために99匹を残すか?
さて、イエス様はこのように話しています。
15:4 「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。
15:5 見つけたら、大喜びでその羊をかついで、
15:6 帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください』と言うでしょう。
さて、100匹の羊の面倒を見る羊飼いがいました。
しかしそのうちの一匹が迷子になってしまったというのです。
羊は地面の草を夢中になって食べているうちに、群れからはぐれてしまうという事がありました。
平地であれば簡単に見つけられるかもしれませんが、山の中に入ると見渡しが効かないので、すぐに迷ってしまうのです。
『さあ、あなたならどうしますか? 100匹の内の1匹が失われたら、残りの99匹を野原に残して、迷子になった一匹を探すでしょう。』とイエス様は言うのです。
みなさんはどう思いますか?
みなさんなら、イエス様にどう答えるでしょうか?
「そうか~?」って思いません?
99匹いるんだから、1匹くらい良いんじゃないかと思いませんか?
だいたい、99匹残したら99匹がバラバラになったり、狼に御襲われたらどうするんだろうと思ったりしませんか?
あるいは、「あ~、そういうもんぁなぁ…?」くらいに思ったかもしれません。
パリサイ派の人たちも、おそらく私たちと同じように考えたと思います。
そもそも、羊飼いがどうするかなんて聞かれても、私たちにはよくわかりませんよね。
なぜなら、私たちには羊飼いの事はよくわからないし、興味もあまりないからです。
さっきも言いましたね、パリサイ派の人たちは、羊飼いは罪人であり、つきあう事を避けるべき人たちです。
ここで羊飼いの話なんてされても、何の共感も感じないどころか、興味もない。
むしろ、「そんな理屈おかしいだろう。」とバカにする。
それがわかっていて、イエス様は彼らにこの話をしているのです。
そこが、イエス様のすごいところですね。
さて、イエス様ここで話しているのは、この羊飼いの選択が正しいかどうかという話ではありません。
羊飼いたちが抱いている、羊たちへの愛の話です。
皆さんは、100匹の羊がいつの間にか99匹になっていたとして気付くと思いますか?
羊飼いは羊を愛します。
羊飼いは羊たちに名前をつけて、1匹1匹を見分けます。
羊たちを獣から守るために、命を捨てる事さえあったそうです。
愚かさのゆえに迷子になってしまった1匹の羊。
その羊を探すために、今いる99匹の羊を置いていったら、99匹の羊が危険にさらされるかもしれない。
1匹の愚かな羊を見つけるために、99匹の羊を置いていくリスクは、どう考えても計算に合いません。
常識的に考えたらおかしい。
でも、羊飼いには1匹を置いて先に進むことは考えられない事です。
そして迷子になった羊を見つけたら、大喜びで帰ってきて、村中でその事を祝うのです。
なぜそれ程までに羊を求め、見つけたら喜ぶのでしょうか?
それは、羊飼いが羊を愛しているからです。
彼らにとってそれは、100分の1の羊ではありません。
1匹1匹が、失うことのできない、かけがえのない羊なのです。
② 滅びではなく救いを喜ぶ
イエス様はなぜ、パリサイ派の人々にこんな話をしたのでしょうか?
それは、ここに神様の愛が表されているからです。
『罪人がひとりでも抹殺されれば、天に喜びがある。』とユダヤ人たちは信じていました。
これは、ユダヤ教のラビの教えです。
イエス様の話を聞いていたパリサイ派の人々も、それが常識であり、疑う事もありませんでした。
だから彼らがイエス様の話を聞いた時、その言葉は大きな衝撃を与えたことでしょう。
イエス様はこう言ったのです。
15:7 あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。
それがどんな罪人であったとしても、神様はその人が滅ぶのを喜ぶのではなく、その人が自らの罪に気づき、神様に立ち返る事を喜びます。
これは別に、イエス様が作った新しい価値観ではありません。
ユダヤ教徒たちも読んでいたはずの旧約聖書の中にも、このような言葉があります。
エゼキエル 18:23 わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。──神である主の御告げ──彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか。
神様はこのように、エゼキエルを通してはっきりと語っています。
そしてその愛は、今も変わることなく私たちの上に注がれているのです。
③ 迷子の羊は誰か
迷子になって神様から離れてしまうのは、愚か者だとパリサイ派の人々は考えます。
そしてそれは自業自得なのだから、滅びてしまえばいいと思うのです。
私たちの中にも、そんな考えはないでしょうか?
滅びればいいとまでは思っていなかったとしても、罰を受けてしかるべきだと、心のどこかで思っていたりするのではないでしょうか。
しかし、神様はそのようには思っていません。
ひとりの罪人が立ち返る事だけを、神様は願っています。
迷子になった羊がひとりでも見つけられ、もう一度神様のもとに戻る事ができるように、イエス様自らが探し求めているのです。
さて、もう一歩踏み込みましょう。
この迷子の羊とは、取税人や娼婦、羊飼いたちの事だと私たちは思っていました。
しかしよく考えてみれば、罪人でない人なんて誰もいません。
パリサイ派の人々だって、神様から離れてしまった罪人のひとりであり、迷子の羊です。
そしてそれは、私たちも同じです。
みなさんが、「99匹はどうなるんだろう?」と思っていたとしたら、それは自分が99匹の方だと思っていたからかもしれません。
でも、安心してください。
あなたも、迷子の1匹の方ですから。(笑)
神様は、私たちを探し、求め、身許へと引き寄せて下さいます。
70億分の1というちっぽけな存在ではなく、だから滅んでも仕方がないとあきらめるのではなく、私たちをたったひとりしかいない人間として愛し、見つけて下さるのです。
見つけられた私たちは、イエス様の肩に乗せられて、ゆっくりと運ばれていきます。
そして天の御国についたその時には、天で大きな歓声が沸き起こるのです。
神様にとって、私たちはそれ程までに価値がある、尊い存在です。
私たちが他の人をどう思ったとしても、他の人たちが私の事をどう思ったとしても、その価値が変わる事はありません。
その愛に気づき、神様に立ち返りましょう。
神様は今も、私たちを探し続けて下さっているのですから。