ルカ14:25-27 『ルカ72 弟子の覚悟』 2016/08/21 松田健太郎牧師
ルカの福音書14:25~27
14:25 さて、大ぜいの群衆が、イエスといっしょに歩いていたが、イエスは彼らのほうに向いて言われた。
14:26 「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。
14:27 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。
14:28 塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか。
14:29 基礎を築いただけで完成できなかったら、見ていた人はみな彼をあざ笑って、
14:30 『この人は、建て始めはしたものの、完成できなかった』と言うでしょう。
14:31 また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようとするときは、二万人を引き連れて向かって来る敵を、一万人で迎え撃つことができるかどうかを、まずすわって、考えずにいられましょうか。
14:32 もし見込みがなければ、敵がまだ遠くに離れている間に、使者を送って講和を求めるでしょう。
14:33 そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。
14:34 ですから、塩は良いものですが、もしその塩が塩けをなくしたら、何によってそれに味をつけるのでしょうか。
14:35 土地にも肥やしにも役立たず、外に投げ捨てられてしまいます。聞く耳のある人は聞きなさい。」
大ぜいの群衆がイエス様とともに歩いていたと、今日の個所には書かれています。
彼らは、イエス様を先生と呼んで、イエス様から何かを学ぼうとしていたかもしれませんが、弟子ではありませんでした。
時々勘違いされる事ですが、イエス様の弟子は12使徒だけではありません。
他にもたくさんの弟子たちが聖書には登場し、なろうと思えば、誰でもイエス様の弟子になる事はできました。
イエス様はここで群衆たちを招き、単についてくるだけの人たちから、弟子として歩み始めるための一歩を促しているのです。
さて、単なる群衆と弟子とでは、何が違うのでしょうか?
群衆は、時々イエス様の言葉を聞くことができ、その言葉に感銘を受けました。
一方弟子たちは、常にイエス様の言葉を聞き、感動するだけでなく実践しました。
群衆は、時々イエス様の御業を目にして驚きました。
しかし弟子たちは、自らもその御業の一部となって、人々に神の国を教えました。
群衆は、何か問題が起こればクモの子を散らすように逃げ出し、いなくなってしまいました。
弟子たちは、一度はイエス様を裏切ったものの、その後聖霊を受けた後は、キリストのからだとして働き、殺されるまで福音をのべ伝え続けました。
私たちはどうでしょう?
私たちは、イエス様の弟子でしょうか?
それとも、イエス様の後についていっている群衆のひとりでしょうか?
もしイエス様の弟子として生きようとするなら、どうすればよいのでしょうか?
① 父母を憎むほどに主を愛する
イエス様は、弟子として生きるようになる条件として、このような事を話しています。
14:26 「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。
これだけを見ると、恐ろしい事を言っていますね。
ユダヤの文化を無視して字面だけをそのまま読んで理解しようとすると、大変な事になる典型的な言葉のひとつです。
そのまま読めば、イエス様の弟子になるためには家族を憎むという事になってしまいます。
これでは、オーム真理教とか統一協会と変わりませんね。
しかし聖書には、「あなたの父と母を敬いなさい」という言葉があります。
文字通り、「憎みなさい」という意味では矛盾してしまいますね。
ユダヤでは、AよりもBの方を愛すると言う時に、Aを憎むという表現をするのです。
つまりこれは、家族よりもイエス様を愛する必要があるという話なのです。
私たちはもちろん、父と母を愛し敬います。
しかし弟子として生きるなら、それ以上にイエス様を愛する必要があります。
なぜなら、神様との関係の回復が、何よりも大切な事だからです。
でもそれは、父と母をないがしろにするという事ではありません。
神様との関係の回復を通して私たちは本当の愛を知り、人を愛する事を知る事ができます。
不思議な話の様ですが、私たちが父と母を神様以上に愛するよりも、神様を優先して愛した方が、結果として父と母への愛が大きくなるのです。
② 十字架を負う
さて、イエス様の弟子となるもうひとつの条件は、自分の十字架を負ってイエス様についていくという事です。
14:27 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。
これについては、実は9章のところですでに学びました。
11月頃にお話をしているのですが、覚えている方はいらっしゃるでしょうか?
自分の十字架を負うとは、自分の思いに従って行動するという自我を十字架に付けてしまうという事です。
自分の思いに従って生きていたのでは、今までの生き方と何も変わりません。
私たちがイエス様の弟子として生きるなら、自分の自我に死んでイエス様に従うのでなければ、人生が変わるという事はないのです。
何が正しく、何が間違っているかを決めるのは神様であって私たちではありません。
誰を、どのように愛するかを決めるのは、神様であって私たちではありません。
私たちの価値を決めるのは、私たちでも他の誰かでもなく神様です。
私たちが本当に幸せになり、喜びに満ち溢れる方法を知っているのは、私たち自身ではなく、神様なのです。
クリスチャンとして救いを手にしていながら、自我に従って生きる事は可能です。
神様は、私たちにご自分の道を強要したりはしません。
私たちに自由意志を与えているのですから。
でも、私たちが神様に創造されたままの自分に少しでも近づき、本当の喜び、本当の幸せを体験したいと願うなら、私たちは群衆としてただ後についていく者ではなく、弟子とならなければなりません。
そのためには、十字架を負ってイエス様についていく必要があるという事なのです。
③ イエス様のたとえ
イエス様は、この事についてふたつのたとえ話をしています。
ひとつ目はこんな話でした。
14:28 塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか。
14:29 基礎を築いただけで完成できなかったら、見ていた人はみな彼をあざ笑って、
14:30 『この人は、建て始めはしたものの、完成できなかった』と言うでしょう。
このたとえ話が表しているのは、私たちが何かを始める時、中途半端に終わらせるために始めたわけではないはずだという事です。
私たちがイエス様とともに歩む道を選んだのは、神様とともに生きる本当の幸せを手にしたかったからではなかったでしょうか?
それなのに私たちは、単にキリスト教という宗教に属する事や、○○教会の一員となるという中途半端なところにどうして留まってしまうのでしょう。
単なる宗教をしても、お金と時間と労力を巻き上げられるだけで何も良い事はありません。
私たちは宗教の戒律なんかではなく、神様を第一とし、自分の十字架を負ってイエス様とともに歩みましょう。
その先にこそ、私たちが求めていた本当の幸せがあるはずだからです。
もうひとつのたとえ話はこんな話です。
14:31 また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようとするときは、二万人を引き連れて向かって来る敵を、一万人で迎え撃つことができるかどうかを、まずすわって、考えずにいられましょうか。
14:32 もし見込みがなければ、敵がまだ遠くに離れている間に、使者を送って講和を求めるでしょう。
これは、自分の倍の戦力を持った敵に狙われている王様の話です。
問題が起こった時、私たちは最善策を求めて深く考えるはずではないでしょうか。
私たちは2万人の敵に襲われることはないかもしれませんが、人生の中で危機的状態に陥る事はあるはずです。
そんな時、私たちはどうすればいいか考えずにはいられなくなってしまうでしょう。
「今まで一万人だけで戦ってきたのだから、このままでも大丈夫だろう」とは思えないはずです。
私たちが大変な状況に直面するなら、今までの生き方を変えて、イエス様の弟子として生きる道を考えるべき時なのかもしれないのです。
このふたつのたとえ話に共通している事は、『すわって、よく考える』という事です。
私たちは、よく考える必要があります。
ただ、イエス様の後についていく群衆として生きていれば良いのか、それとも弟子として生きていくべきなのか?
④ 地の塩
最後にイエス様は、地の塩のたとえ話をしています。
14:34 ですから、塩は良いものですが、もしその塩が塩けをなくしたら、何によってそれに味をつけるのでしょうか。
14:35 土地にも肥やしにも役立たず、外に投げ捨てられてしまいます。聞く耳のある人は聞きなさい。」
塩は、塩味を付けたり、ものが腐らないようにするために使うものです。
その塩が塩気をなくしたら、それは何のために存在しているのでしょう。
さて、私たちは生まれてきた目的や、与えられている使命の中で生きているでしょうか?
もしかすると、自分が何のために生まれ、何のために生きているのかというその意味や目的さえ理解していなかったりするかもしれません。
そんな私たちは、塩気をなくした塩のようなものです。
塩は、塩として使われる時にこそ役に立つことができます。
私たちは、神様との関係を回復して、イエス様の弟子として生き始める時、本来の私たちとして本領を発揮し始めるのです。
それでは、もう一度皆さんにお聞きしたいと思います。
皆さんは、群衆としてイエス様の後についていけば満足ですか?
それとも、イエス様の弟子として、生きたいですか?
もちろん群衆として生きる道を選んだとしても、救いを失うという事はありません。
しかしイエス様の弟子として生きるなら、皆さんの人生には様々な冒険が約束されています。
祈りましょう。