ルカ13:10-17 『ルカ66 解放の福音』 2016/07/03 松田健太郎牧師
ルカの福音書13:10~17
13:10 イエスは安息日に、ある会堂で教えておられた。
13:11 すると、そこに十八年も病の霊につかれ、腰が曲がって、全然伸ばすことのできない女がいた。
13:12 イエスは、その女を見て、呼び寄せ、「あなたの病気はいやされました」と言って、
13:13 手を置かれると、女はたちどころに腰が伸びて、神をあがめた。
13:14 すると、それを見た会堂管理者は、イエスが安息日にいやされたのを憤って、群衆に言った。「働いてよい日は六日です。その間に来て直してもらうがよい。安息日には、いけないのです。」
13:15 しかし、主は彼に答えて言われた。「偽善者たち。あなたがたは、安息日に、牛やろばを小屋からほどき、水を飲ませに連れて行くではありませんか。
13:16 この女はアブラハムの娘なのです。それを十八年もの間サタンが縛っていたのです。安息日だからといってこの束縛を解いてやってはいけないのですか。」
13:17 こう話されると、反対していた者たちはみな、恥じ入り、群衆はみな、イエスのなさったすべての輝かしいみわざを喜んだ。
さて、イエス様は安息日に、ある会堂で福音を述べ伝えていました。
会堂というのはシナゴーグの事で、ユダヤ教の教会みたいなものだと考えるとイメージしやすいかもしれません。
イエス様は、いつも外で話をしている印象がありますが、このように会堂でメッセージをすることもあったのです。
そこでイエス様は、ある女性と出会います。
13:11 すると、そこに十八年も病の霊につかれ、腰が曲がって、全然伸ばすことのできない女がいた。
この女性は、元々イエス様を求めてこの会堂に来たわけではありませんでした。
しかしこの出会いによって、この女性の運命は大きく変わるのです。
今日は、一体どんなことが起こるのでしょうか?
① 求め続けること
この女性は18年もの間病気になっていました。
それがどのような病だったかはわかりませんが、病の霊の仕業だったと書かれています。
この女性はそれによって腰が曲がり、全然伸ばすことのできない状態になっていました。
痛みや苦しみが長く続くと、体の筋肉は常に緊張状態となり、萎縮してしまいます。
この女性は腰が曲がって伸ばすことができない状態になっていましたから、上を見る事が出来ず、いつも下を見ている状態です。
その状況は、この女性をますます落胆させ、心を落ち込ませていったのではないでしょうか?
女性の心はこの病気の霊に捕らえられ、癒されるという希望を奪い取られてしまっている、そんな状態だったのです。
実は私たちにも、同じようなことが起こっていないでしょうか?
肉体的には、必ずしも同じ状態ではないかもしれません。
でも私たちは、自分の性格や、健康状態、仕事や、家族、過去の失敗、劣等感、様々なものに捕らえられて、希望を失ってしまっていることがあるのです。
「本当はあんな事も、こんな事もしてみたい。」
「もっと喜びをもって生きていきたい。」
そう思っていても、自分を取り巻く状況に捕らえられてしまって萎縮し、身動きが取れなくなってしまうのです。
さて、病の霊につかれたこの女性は、癒されることに関してはほとんど希望を失ってしまっていたかもしれません。
しかし、人生に対する希望は、完全に失っていたわけではありませんでした。
だからこの女性は、病で苦痛に歪み、萎縮してしまった自分のからだを引きずるようにして、シナゴーグに通って聖書の言葉に耳を傾けていました。
そしてだからこそ彼女は、イエス様と出会う事もできたのです。
私たちも、希望を持てないような状況に捕らわれて、身動きが取れなくなることがあるかもしれません。
それでも私たちは、神様に救いを求める事を止めてはいけないと思います。
神様は、私たちに必ず希望を与えて下さることを信じて、求め続ける事ができるのです。
② イエス様の招き
さて、会堂でメッセージを語っていたイエス様は、そんな女性に目を留めました。
イエス様はどうしたでしょう?
イエス様はその女性のところに行って、彼女を癒したと思いますか?
そうではありません。
イエス様がまずしたのは、彼女を『呼び寄せ』たという事です。
これはいつでもそうなのですが、イエス様は人を勝手に癒すという事はしないのです。
多くの場合は、人々の方から癒しを求めてイエス様のもとにやってきます。
しかしこの女性は、自ら癒しを求めてイエス様のところに行く事はありませんでした。
イエス様の事をよく知らなかったからかもしれません。
あるいは、自分の状況にあまりにも絶望していて、自分が癒されるとは思えなかったのかもしれません。
だからイエス様は、この女性をご自身のもとに招いたのです。
何のために?
癒すためにです。
この女性には、イエス様の言葉に従わず、招きに応じないという選択もできました。
「恥ずかしいから」と言って前に出なかったら、あるいは「私はこのままで十分です」と言って、変わる事を望まなかったら、彼女が癒される事はなかったでしょう。
でも彼女は、イエス様の招きに従ってイエス様のもとに行き、そして癒されました。
13:12 イエスは、その女を見て、呼び寄せ、「あなたの病気はいやされました」と言って、
13:13 手を置かれると、女はたちどころに腰が伸びて、神をあがめた。
この時“いやされた”と訳されているこの言葉は、病気が癒されるという言葉とは違う言葉で、本来なら“解放される”と訳す言葉が使われているのだそうです。
イエス様は、私たちを解放してくださる方なのです。
そして、自分を縛っていたものから解放された時、この女性の腰はたちどころに伸びて、神様をあがめたのです。
イエス様は、私たちを招いています。
私たちが癒されるように、救われるように、そして解放されるように。
イエス様の招きに応えて御元に行くなら、私たちは癒され、救われ、解放されます。
しかし、私たちがその招きに応えようとしないなら、私たちが変わる事はありません。
皆さんは、イエス様の招きに応えますか、それとも背を向けてしまうでしょうか?
私達には、イエス様の招きに応答する事が求められているのです。
③ 安息日にいやす
さて、イエス様がこの女性を癒すのを目にして、怒りの炎を燃やす人がいました。
会堂の管理者です。
会堂管理者というのは、言ってみればシナゴーグの責任者ですね。
彼は、何が気にくわなかったのでしょう?
それは、働いてはならない安息日に、イエス様がこの女性を癒したからです。
13:14 すると、それを見た会堂管理者は、イエスが安息日にいやされたのを憤って、群衆に言った。「働いてよい日は六日です。その間に来て直してもらうがよい。安息日には、いけないのです。」
安息日は、十戒の中でも厳しく戒められている律法のひとつでした。
その日は働いてはならず、一日中神様を礼拝しなければならないと定められていました。
しかし、どうする事が働くことなのか、具体的に記されているわけではありません。
そこで律法学者たちは議論をして、労働とは何かという事を定義していきました。
そしてその定義によれば医療行為は労働に当たり、イエス様がしたことは律法を違反しているという事になるのです。
「安息日は夕方には終わる。それまで待って癒してもらえばいいじゃないか。明日だって、明後日だってかまわないだろう。どうしてわざわざ労働を禁じられている安息日に癒す必要があるのだ。」という事なのです。
私たち日本人は、常識を重んじて、他の人たちと合わせるという文化的な性質を持っていますから、これはこれで、もっともな話のようにも感じるかもしれません。
しかし、考えてみていただきたいのです。
安息日とは、誰のために、そして何のために与えられた律法だったかという事を。
安息日の目的は、数百年もの間奴隷として生きてきたイスラエルの人々にとって、彼らがもう奴隷ではないことを明らかにする律法でした。
「あなたたちはもう、強制的に労働させられるのではない。」
「休みなく死ぬまでこき使われるのではなく、自分のいのちのために、自発的に決断し、自律的に生きなさい。」
神様からのそんなメッセージが、安息日の律法には込められています。
それはまさに、イスラエルの解放のしるしだったのです。
ところが律法学者たちは、解放のための律法を、人を縛るルールに変えてしまいました。
人を縛り付けてコントロールすること、それが宗教の世界です。
神様は、私たちを縛ってコントロールしようとしていると思いますか?
それなら神様は、最初から私たちをロボットのようにいう事を聞くだけの存在として創ればよかったはずです。
そんな事は、神様が望んでいる事ではありません。
神様は私たちを自由にしたい、解放したいと思っておられるのです。
神様は、自己中心的になり、罪の奴隷となってしまった私たちを解放するためにイエス様を送り、十字架で身代わりとして下さった。
それが福音なのです。
イエス様はせっかくこの女性を解放したのに、会堂管理人は、解放を喜ぶために与えられた安息日の律法を振りかざして、この女性が解放されることは律法に反していると言って責め立てたわけです。
本末転倒ですよね。
これが律法主義、宗教のもたらすものです。
イエス様はこの管理人にこのように言いました。
13:15 しかし、主は彼に答えて言われた。「偽善者たち。あなたがたは、安息日に、牛やろばを小屋からほどき、水を飲ませに連れて行くではありませんか。
13:16 この女はアブラハムの娘なのです。それを十八年もの間サタンが縛っていたのです。安息日だからといってこの束縛を解いてやってはいけないのですか。」
13:17 こう話されると、反対していた者たちはみな、恥じ入り、群衆はみな、イエスのなさったすべての輝かしいみわざを喜んだ。
私たちも、解放を束縛に変えてしまってはいないでしょうか?
神様が与えて下さった福音を、宗教に変えてしまってはいないでしょうか?
宗教は、本体の神様の意思や目的を無視して、私たちを縛り付けるものです。
それは決して、神様が喜ぶものではありません。
神様が願っているのは、私たちの解放です。
私たちを罪から解放し、サタンから解放し、救いを与える福音に生きていきませんか?
福音は、私たちに喜びを与え、私たちを幸せにします。
それこそ、神様のご計画なのです。